◆パウロの生涯(四二)
               
   習志野バプテスト教会週報 
   二〇〇二年二月一〇日号 
   ▽種まきを続け、祈ろう

 

使徒行伝一八章五節以下

 

シラスとテモテとマケドニヤより来たりて後はパウロ専(もっぱ)ら御言葉を宣()ぶることに力(つと)め、イエスのキリストたることをユダヤ人に証(あかし)せり。

 

然るに彼ら之に逆い、かつ罵(ののし)りたれば、パウロ衣をはらいて言う「なんぢ らの血は汝らの首(こうべ)に帰すべし、我は潔(いさぎ)よし、今より異邦人に行かん」。

 

(つい)にここを去りて神を敬うテテオ・ ユストという人の家に到(いた)る。この家は会堂に隣(とな)れり

 

 伝道者が働らくことは決して恥ずかしいことではないが、信徒がふえるに従って指導や相談ごとがふえるからいつまでも生活の必要のために働らくことは出来なくなる

 

(善()く治(おさ)むる長老、ことに言葉と教(おしえ)とをもて労する長老を一層(ひときわ)尊ぶべき者とせよ。聖書に「穀物をこなす牛に口篭(くつご)をかくべからず」また「労働人(はたらきびと)のその価(あたい)を得()るは相応(ふさわ)しきなり」と言えばなり。<eモテ前書五章一七、一八節)。

 

伝道者にかわって信徒がその伝道者の必要のために祈り、重荷を負う責任があると教えられている(テモテ後書二章三〜六節)。

 

 伝道者は決して生計を立てるために、あるいは職業の一つとして伝道者になるのではない。個人的な名声や親の願望を果すためでもない。神様によって召し出されるのである。

 

 使徒パウロの伝えた福音は非常にはっきりとしたポイントを持つ。

 

 イエスはキリストである。

 

 福音を受け入れるか、拒むか。祝福か呪(のろ)いか(申命記 二七章一二、一三節、ヨシュア記八章三〇〜三四節)

 

 福音は常に反応をもたらす。伝える者の責任と、聞く者の責任がある。旧約聖書のエゼキエル書三三章七〜九、一一節を参照されたい。

 

神の摂理(せつり)

 

 ユダヤ人が宗教活動をしていた会堂は使徒たちの初期

の伝道の場であった。やがてユダヤ主義者の猛烈な反対がおこって会堂での証しは出来なくなっていった。

 

 会堂のすぐ隣りにテテオ・ユストという敬虔な人がいてパウロたちを迎え入れた。会堂司クリスポとその家族一同が主イエス・キリストを個人的な救い主と信じ受け入れた。そして多くのコリントの人たちもイエス様を信じてバプテスマを受けた。神の摂理に身をおく者の幸いを見ることが出来る。

 

エホバは善なる者にして患難(なやみ)の時の要害(ようがい)なり、彼は 己に依頼(よりたの)む者を善知(よくし)り給う。

ナホム書一章七節(続)  

 

 

◎ 暗誦聖句 ピリピ書二章五節

汝らキリスト・イエスの心を心とせよ 。

 

 


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