◆パウロの生涯(四四)
               
   習志野バプテスト教会週報 
   二〇〇二年二月二四日号 
   ▽我なんじと共にあり

 

我なんじと共にあり、誰も汝を攻めて害う者なからん。
この町には多くのわが民あり
 使徒行伝一八章一〇節

 

 使徒パウロは勇気のある伝道者であった。反対も迫害も彼をとめることは出来なかった。では彼は超人的な神経の持主で、私たちのように恐れがなかったのであろうか。どんな時でも、どんな場所でも怖がることなく福音を語ったのであろうか。私たちが戸別訪問をしたり、家族に証をする時感じるような緊張をおぼえなかったのであろうか。

 

常にさまざまの祈と願いとをなし、御霊によりて祈り

また目をさましてすべての聖徒のためにも願いて倦()まざれ。
またわが口を開くとき、言葉を賜わり、はばからずして福音の奥義を示し、語るべき所をはばからず語りうるように、わがためにも祈れ。我はこの福音のために使者となりてくさりにつながれたり。

     エペソ書六章一八〜二〇節

 

 使徒パウロでさえ兄弟姉妹の祈りを求めたのであるから私たちはなおのこと祷援を必要としている。神学校で学び始めたとき、たいていの学生は長い説教をする。あれも言いたい、これも言いたい、でもどこで終えたらいいかがわからない、という状態である。スピーチの先生はこう忠告をする、

 

「話すことがなくなったら座りなさい。」

 

 パウロは話さなくてはならないことをたくさん心に抱いていた。すわる時間が惜しかったのである。迫害者や反対者の妨害で聴衆が散らされることが繰りかえされたのであるから、少しの時間でも語る必要があった。

 

ここをもて我かさねてエホバの事を宣()べず、またその 名をもて語らじと言えり。然(され)どエホバの言(ことば)わが心に ありて火のわが骨の中に閉(とじ)こもりて燃ゆるがごとく なれば忍耐(しのぶ)につかれて堪難(たえがた)し。そは我おおくの人の そしりをきく。おそれまわりにあり……

     エレミヤ記二〇章九、一〇節

 

「我汝と共にあり」

 苦しい問題に直面した時(ナホム書一章七節)、日々の責任を果そうとする時(ヨハネ伝一章四八節)、真実の愛が認められ(コリント前書八章三節)、クリスチャンの希望が確立される(テモテ後書二章一九節)。

 

人生の海の嵐に もまれきし この身も

 ふしぎなる神の手により 生命びろいしぬ

 いと静けき みなとに着き、我は今やすろう

 救い主イエスの手にある 身はいとも安(やす)し。

  (聖歌四七二番)           (続く)

 

◎暗誦聖句 コリント前書一三章四節A

愛は寛容にして、慈悲あり。

 


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