◆パウロの生涯(四八)
習志野バプテスト教会週報 二〇〇二年三月二四日号 ▽十字架の意味を熟考しよう パウロ言う「ヨハネは悔い改めのバプテスマを授(さず)け て、己に後(おく)れて来るもの(即ちイエス)を信ずべき ことを民に言えるなり」 彼らこれを聞きて主イエスの名によりてバプテスマ を受く。=@ 使徒行伝一九章四、五節 バプテスマについて誤解する人が多い。二千年前の信者の中にも正しい理解がゆきわたっていなかったことがうかがわれる。「聖霊のバプテスマ」とか、「バプテスマによって救われる」とかの異論も耳にすることがある。一つおぼえておきたいことは、使徒行伝は教理を教える書簡ではないということである。 「バプテスマは、信者がキリストとともに葬られ、キリストとともに復活したことの象徴である」(ロマ六章三節、コロサイ二章一二節、ペテロ前三章二一節) 「バプテスマは救いの後にくるもので、前にあるべき ではないことを示している。」(以上二点はシーセン 博士著『組織神学』より) バプテスマ(全身の浸禮(しんれい))と主の晩餐(ばんさん)は新約教会にとって大切な礼典である。とくに主の十字架を思うこの時期に再考することは意義があると思う。 使徒パウロは会堂で三ヶ月の間、神の国について説きき明かしたとある。彼の行くところ、いつも何処でも反対者の暴挙があったのだが、この時は静かであった。 コスモポリタン的な風潮のあったエペソだからではなかったかという学者もある(W&Z)。だがその静けさも長くは続かなかった。パウロの説教の中心は神の国とキリストのみわざであった。 ツラノの教室は午前中の授業で終わり、講堂は旅行者にも開放されていて一一時から四時まで利用出来たという。昼食をとったあとの昼寝の時間ということらしい。時間のあるときにはパウロは手ずから働いたようである(使徒行伝二〇章三四節)。 パウロはエペソで二年間余りをすごした。彼の伝道は現在のトルコにまで至ったようである。この間にコロサイ、ラオデキヤ、ヒエラポリスの教会がつくられた(コロサイ四章一三節)。 パウロはまずユダヤ人に神の真理を説いた。彼らが心をかたくなにして福音をこばむと妥協をすることなく、彼らから離れた。E・ピカリング博士は、パウロのこうした態度は神のみ言葉に従わない人たちと分離をするクリスチャンの姿勢をあらわす例だと書いている。 使徒はこのエペソ滞在中にコリント前書を書いたといわれる。(註)昔の学校は建物が主(しゅ)ではなく、指導の場であった。庭園や日影の回廊が教えの場であったりした。
◎ 暗誦聖句 マタイ伝六章七節前半
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