神の招き
               
   習志野バプテスト教会週報 
   二〇〇二年四月二一日号 
   ▽主の大命令に従い行う教会をめざして
 
 
すべて労する者、重荷を負う者、われに来たれ、われ汝らを休ません。 =@   マタイ伝一一章二八節
 
 聖書全巻を貫く神様から人間への大きな招きがこの一句にも響きわたっています。
 
 人は、聖書を小説のように気軽に読めばよいといいますが、少なくても、「来たれ」、「受けよ」、「取れ」と書かれている句節は、読む人自身に対する直接的な呼びかけとして受けとめなければなりません。
 
 
※労するものとは誰ですか
 
 宗教と名のつく教えは、しばしば人間をしばりつけます。イエス様が地上におられた時にも、同じでした。そして、宗教は、両極端に分かれています。禁欲主義か、放らつ主義かです。

 禁欲主義は、人間のうちにひそむ欲情を何一つおさえる力がないことを私たちに教えますし、快楽主義は、人間を絶えず強いしげきへと追いつめていきます。人間性の限界を見いだして泣く者、あるいは、罪の泥沼に入りこんで滅びを見つめる者、懸命に努力するが絶望する人。どちらも〈労する者〉です。

 

※重荷を負うものとは誰ですか

 
 自分の罪を知り、その罪の苦しみをかかえている人のことです。
キリストの行く先々に待ちうけた人たちは、取税人だとか、姦淫(かんいん)の女などでした。神殿からも、社会からも家族の人達からでさえも見はなされた不幸な人々。あたかも、ハエか、ウジ虫のようにきらわれた者たちです。
 
 労する者、重荷を負う者とは、人類全体の「生」の苦悩です。心と肉体の両面で苦しむ人間に対して、キリストは、おっしゃいました、「すべて・・・」。そこに、差別はありません。一人としてもれる人はいません。でも、自分から救いを求めようとしないなら、その人は、招きを拒んだことになります。
 
 あなたは、「信仰ではじめて、律法で完成しよう」と、苦しんでいないでしょうか(ガラテヤ書三章三節)。
あなたの苦しみ、悲しみ、絶望は、誰にも理解できないほどのものかもしれません。人間に失望したあなたこそ、神の招きを受けているのです。
 

〈聖書とはどんな本?〉

 
 神様を知ることのできる本です。神様の真理が書かれてあり、私たちを永遠の生命に導いてくれる手引書です。
 
 聖書は、六六巻から成り、旧約聖書と新約聖書の二つに大きく分かれています。「約」は、「契約」とか「約束」という意味です。
  ◎ 暗誦聖句  マタイ伝六章九〜一三節

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