信仰の一歩
               
   習志野バプテスト教会週報 
      二〇〇二年五月一九日号
     ▽霊と真理とをもって主を崇めよう
 
 

 "おのおの己が事のみをかえりみず、人のことをもかえりみよ。汝らキリスト・イエスの心を心とせよ。 " 
             ピリピ書二章四、五節 

 聖書はむずかしい、という声を耳にすることがあります。たしかに、人類創造から、地球の最後までを含む啓示の書であるからむずかしいところもあります。 

 「むずかしい」という人は、たぶん名前の続くマタイ伝でいやになったか、あるいは、創世記の広大さに考えることが億劫になったのかもしれません。 

 聖書には、歴史、預言、詩詠、知恵、教理などいろいろな内容があることは、ご存知のとおりです。人生のあり方、生活の知恵などを求める場合には、旧約の箴言を毎日読むことがよいし、朝晩、心のなぐさめ、励ましを受けるためには、詩篇を声高に読むことをおすすめします。

 信仰と生活のマッチということを考えるなら、はじめに引用したピリピ書を何度も読むことを実行するようにしたいです。

「かりに、私が自分のことをかえりみないで、人のことを考えていたら、いつまでたっても、自分はよくなれない。」と、いう人もいます。しかし、それは、人間だけの集まりを考えているからで、神様のみ手のうちにある自覚をもたないための不平です。 

 人間が一番不幸だと思うとき、あるいは、不安になるときはどういう時でしょうか。一日中、自分の生活のこと、将来のこと、健康のことなどで、頭がいっぱいになっている時ではないでしょうか。

「人から自分がどう思われるか。」ということを気にしだすと、人間はいたたまれないほどの緊張感と、不安におそわれたりします。小心者で実直などという評価をされると、なおさら人の言葉を気にしだします。

 内向的な人は、一面「自己中心型」といえないでしょうか。人に正当な評価をしてもらいたいと思いながら、自分を外に出せないで苦しんだりします。私にも、そうした一面がありました。 

 伝道者パウロのすすめた言葉は、教会内での人間関係であったが、わたしたちは、それを社会生活のなかでも、あてはめることが出来ると思います。

 「自分のことだけを考えるな。」といわれると、誰でも反発したくなります。ほかの人のやることだって、結局は、自分がかわいいからだろうなどと非難するのです。 

 "汝らキリスト・イエスの心を心とせよ。 "とは、「心の貧しさ」、神様のみ前における服従にほかならないと思います。人のことに思いをはせることは、いわば、信仰の試金石といえないでしょうか。

 私たちの生活のうち、どれほど、「人のことを考える」ことが出来るかは、信仰のバロメーターであり、幸福の度合いなのです。 
 

◎ 暗誦聖句  "さらば凡(すべ)て人にせられんと思うことは、人にも亦(また)その如(ごと)くせよ。 " マタイ伝七章一二節 
 


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