信仰の関門
               
   習志野バプテスト教会週報 
     二〇〇二年五月二六日号
     ▽心の貧しい者は幸い
 

" パリサイ人、立ちて心の中にかく祈る。

「神よ、我はほかの人の、強奪、不義、姦淫するが如き者ならず、又この取税人の如くならぬを感謝す。
我は、一週のうちに、二度断食し、凡て得るものの十分の一を献ぐ。」

しかるに取税人は、はるかに立ちて、目を天に向くることだにせず、胸をうちていう、
「神よ、罪人なる我をあわれみ給え。」

われ汝らに告ぐ、この人は、かの人よりも義とせられ
て、己が家に下りゆけり。おおよそ己を高うする者は 卑うせられ、己を卑うする者は、高うせらるるなり。"          ルカ伝一八章九節以下

 冒頭の聖句は、人間がどうして神様の救いにあずかろうとしないか、という問題に光を投げかけています。

 パリサイ人というのは、きびしい戒律を持ち、宗教的にも正しい者という自負心をもっていました。一方、取税人は、いつの世にも人々から好かれる職業の人ではありません。

 当時は、不正がはびこっていた上、人間としても様々な悪の限りをしていました。そんな二人が、神様を礼拝するために来たのです。

 神様は、人間の高ぶりをおきらいになりますが、人間は、自分を低く見せてまで自慢をするのです。まして、宗教的な度合いを云々するときには、自分より低い人を見くびる風潮がつよいのです。

 クリスチャンは、「罪人」という言葉を使うとき、決して自分とほかの人とを比較はしません。神様と人間との関係を考えているのです。私たちは、救われた罪人であり、善人ではありません。

 人間としてすぐれた人の集合が、教会というのでもありません。私たちは、自分の罪(神様に対する不信仰、不従順)を認めて、ゆるしにあずかった者たちにすぎないのです。

 パリサイ人は、自分の宗教的熱心さを誇りにしました。すべてが自分中心に、自分を尺度にして考えられたのでした。

 自分をたてようとせず、自分の弱さをはっきり認めた取税人は、神様の救いを求めました。彼のそれまでの生活そのものが、義(正しい)とされたのではなくて、彼が神様の前に心をひくくし、許しを乞い願った結果として義とされたのです。しかもそれは、自分のよい行いではなく、イエス様の十字架を信じることに救いの源があるのです。

 自我を捨てましょう。心の貧しい者となり、神様のお示しくださる新しい生命の道を歩もうではありませんか。信仰とは、立場の変化であり、心の変化であり、人生の歩みの根本的変革なのです。
 
 

◎ 暗誦聖句 ヨハネ黙示録一章三節
" この預言の言を読む者と之を聴きてその中に録された ることを守る者どもとは幸福なり、時近ければなり " 
 


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