◆真の神を知ろう(三)
               
   習志野バプテスト教会週報
    二〇〇二年六月三〇日号
    ▽信仰を曲げずに 
 
☆ 近 道 ☆

 キリスト教を知るてっとり早い方法はないものかと考える人がいます。

 
 クリスチャンの話を聞いたり、教会に行ったり、宗教書を読んだりといろいろな方法があるでしょう。しかし、それらは決して近道とは言えません。
 
 日本の知識人といわれる英文学者の書いた最も恥ずべき、不信仰なカッパブックス「聖書」(法政大教授本田顕著)など読んだところで、とうてい神の愛、十字架の意味などわかるはずがありません。
 「幾何学に王道なし」というのと同じに、信仰に王道はありません。だれでもキリスト教と正面からぶつからなくては、真のキリスト教を理解することはできません。大体の宗教は、教祖を知らなくても、教理とか思想をもってことが足りることでしょう。先祖の霊を祭る人々のうちどれだけの人が、教理とか先祖崇拝の源を知っているでしょうか。ただ毎日のおつとめだけで、信仰生活をしているというのではないでしょうか。
 
 キリスト教は、聖書を漠然(ばくぜん)と読むだけで知ったとは言えません。聖書の中心テーマたるイエス・キリストを知らなくてはなりません(ヨハネ伝五章三九節)。クリスチャンとはキリストの性質につながるもの、すなわちキリストの弟子という意味なのです。
 
神むかしは預言者たちにより、多くに分かち、多くの方法をもて先祖たちに語り給いしが、この末の世には御子(キリスト)によりて、我らに語り給えり。
      ヘブル一章一節
 
未(いま)だ神を見し者なし、ただ父の懐裡(ふところ)にいます独子(ひとりご)の神(キリスト)のみこれを顕(あらわ)し給えり。
    ヨハネ伝一章一八節
 
とすると、近道はイエスの生涯を知る以外にはないということが分かります。キリストの高い倫理、道徳を取り入れようという最高道徳(宗教)の人々、あるいは生長の家(宗教)の人々、あるいはキリスト教内部の自由主義者などは、自己矛盾しているのです。

 もしイエスが最高の倫理、道徳の教師であるならば、彼の弁明を信じ受け入れなければいけません。イエスご自身が、「私は神である」と言明なさったことを信じましょう。然し、イエスを教師という人々は、それを認めません。だとすれば彼らは、イエスを偽善者、マヤカシ者、無知の人々を暗い世界においやる者として告訴すべきでしょう。なぜなら、神ならぬ自分を神と言明したことになるのですから。
 

 貧しい人々を助け、病人をいやし、心に希望のない人には希望をあたえ、人類を愛してやまなかったイエスが、裁判で無罪と認められながら、十字架にかけられたのです。「それと私と何の関わりがあるか」という友よ、その十字架に太いくぎをうちつけたのはあなたなのです。
 
 正義(ただ)しい人、罪のない人が死刑を受けたとすると、彼を殺した人々は人間の正義をまげて殺人の罪を犯したとは言えないでしょうか。
 


◎ 暗誦聖句 マタイ伝六章一九節前半なんじら己(おの)がために財賓(たから)を地に積むな。(ここは虫 と錆(さび)とが損(そこな)い、盗人(ぬすびと)うがちて盗むなり。)=@                       


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