◆真の神を知ろう(七)
               
   習志野バプテスト教会週報
    二〇〇二年七月二八日号
    ▽足(た)ることを学ぼう
  
* クリスチャンと社会生活 *
 
 クリスチャンとそうではない人々のちがいはどこにあるのでしょうか。
 
一、善の基準
一、労働の目標
一、経済観
一、結婚観
一、教育観
 
 右のどれ一つをとって考えてみても信仰のちがう人とは異なるものです。
 
 それまでは怠け者で、かげひなたの多かった女中さんが救われた後、人がかわったようだなどと言われるのもこうしたことによるのでしょう。部屋の真ん中をクルクルと掃除をして終わりというのは、本当のお掃除とは言えません。四角い部屋なら四隅をていねいにはき、掃除をしなければなりません。部屋のゴミは目立たないように机の下や押入れにつっこんでしまうという不精な人が、案外、女子にもいるのではないでしょうか。
 
僕(しもべ)たるものよ、すべてのことみな肉につける主人にしたがえ、人を喜ばする者の如(ごと)く、ただ目の前の事のみを勤(つと)めず、主を畏れ、真心をもて従え。汝ら何事をなすにも人につかうる如(ごと)くせず、主につかうる如(ごと)く、心より行え。
    コロサイ三章二二節

 お掃除するのも人のためではなく、神さまの庭をきれいにするつもりでやるのです。

 
 私たちはおおむね、ほかの誰かと比べて自分はえらいとか、自分は美しいなどというようです。多くの人間の標準よりも高ければ、[善人・偉人]といわれるのです。

 しかし、政治家が本当によい人でしょうか。法律家が完全な人でしょうか。人を教える教師といえども、犯罪をおかすことがあるのです。誰にも見つからなければいいだろうという考えがあるために、本当の善を行なえないのです。みんながやっていることだからといって、自分の行いを正当化してしまうのです。

 
 クリスチャンはケチでしょうか。一概には言えませんが、無駄をなくす事を考える人が多いとは言えるでしょう。全ての物を神さまから頂いた物だと感謝することから自然、ムダを省(はぶ)こうとするのです。

 ところが、クリスチャンほどムダをするのも珍しいでしょう。ムダというと誤解があるでしょうが、人間が考える基準ではそう見えるでしょう。神さまのご用の為に就職の決まった所をやめにしたり、高給とりが伝道に召されて薄給に甘んじたり、多額の献金をしたり、貧しい人々を助けたり、一生を難病治療に捧げたり、全くあきれる程のムダを神さまのみ前に捧げるのです。
 

 しばしば夫婦の間でも、献金をいくらにするかということで、意見の食い違いも起こるでしょうが、多く捧げるといったほうが勝つのです。神さまは、お金よりも捧げるものの心をご覧になり、豊かにむくい給うからです。
 
◎ 暗誦聖句 マタイ伝六章二五節後半生命は糧(かて)にまさり、体は衣(ころも)に勝るならずや


                       


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