◆真の神を知ろう(10)
習志野バプテスト教会週報 二〇〇二年八月二五日号 ▽永遠の生命を持っていますか 御子をもつ者は生命をもち、神の子をもたぬ者は生命をもたず。=@
第一ヨハネ五章一二節 クリスチャン生活の基礎は右の聖句にあるように「もつ」ことです。
あなたは手の中に何を持っていらっしゃいますか。紙ですか、ペンですか、それとも食べ物ですか。持っているか、いないかは誰でもわかることです。 米国で伝道中、一人の黒人クリスチャンに出会いました。彼はその町の会館の責任者であり、教会では長老をやっているとのこと。 「あなたは、救われていますか。」と念を押すと、彼は言いました。 「そう願っています。」
「なんですって? 希望していますというと、救いの確信がないのですか。」
「誰でも、そりゃあ、わからないでしょう。わかるのは神様だけでしょう。」
* * * 救いについて、自分自身は何もわからないものでしょうか。 聖書は、このことに関して明らかに教えています。 「人間が自分の救いについて、かれこれ言うのは高ぶりです。」 と、先ほどの黒人クリスチャンは考えるのでした。自分がほかの人より信仰があついとか、偉いとか言うのでしたら、私たち人間にあれこれ言うことは出来ないでしょう。けれども、救いの確信は人間の誕生ほど確かなものです。 「御子をもつ」すなわち、「イエス・キリストを信じて心にイエスさまを受け入れた」人は、手に何かを持つのと同じように、確かな証しをもつ、と聖書は教えています。イエスさまを心にもつ人は、永遠の生命をたしかにもち、イエスさまを信じていない人は、生命をもたないというのです。 感情的に高まったときは「救われた」と感じ、気の滅入ったときは、「救われていない」と思うようなのは、本当のクリスチャンの証しではありません。要は感情ではなくて立場の変化です。神さまのさばきという部屋から、神さまの救いという部屋に移しかえられるのです。 その二つの部屋を仕切る壁にはドアがなく、さばきから救いにしかとびこえられません。「もつ」というと「すてることも出来る」と考えたいものですが、人間の目や心臓のように切り離せないからだの一部分なのです。 どうかあなたも確かなる救い、生命をもってください。 |