◆クリスチャン生活(五)
習志野バプテスト教会週報 二〇〇二年一〇月二七日号 ▽正しい姿勢で 「あなたの心を神様にささげるなら、神様はあなたの 頭のもつれをくしでとかしてくださるであろう。」
日本人は、昔から、宗教心のあつい民族として、世界的に有名です。日本の民話、昔話等にも民間信仰の数多くがその名残(なごり)をとどめています。伝説だけではなく、道祖神から神棚、地蔵、仏壇、祭り、そして日常会話の「ついている」という表現にまで、宗教の異臭がこびりついています。
そんなためでしょうか。ベンダサンの指摘したように、どんな宗教のなかにも日本人の思想、生き方、異教的習慣をねじこもうとしているようです。
使徒パウロがギリシャ人の多神教に心をいため、痛憤したように、私たちももっと、神様をおそれ、信仰の実をあげなければ神様によろこばれません。
我いま人によろこばれんとするか、あるいは神によろこばれんとするか、そもそもまた人をよろこばせんことを求むるか。もし我なお人をよろこばせおらば、キリストの僕(しもべ)にあらじ。 ガラテヤ書一章一〇節 「クリスチャンになると、問題が多くて。」という不満を聞いたことがあります。本当でしょうか。 自分自身の心が、神様を第一とする状態にないためにおこす、中途半端な処理やしくじりを神様のせいにするのは、とんでもない心得ちがいです。 女の子が、幼稚園に行く前にヒーヒー悲鳴をあげて泣いています。時間に遅れまいとあせるお母さんが、汗を出しながら、子供の髪の毛を片手でギュッとにぎりしめ、逃げるこどもの頭にブラシをかけています。あせればあせる程、くしがよくとおりません。 「いっそ、髪の毛を切ってボーズになれば!」 女性にとって大きな宝の一つは、美しい髪であることは、世界で共通です。
その長い黒髪も、櫛(くし)がよくとおらないようでは、雀(すずめ)の巣のようだと悪評されても仕方がありません。 私たちの生活の目あてはどこにあるのでしょうか。どなたによろこばれたいと願っているのでしょうか。自分の思いどおりにならないで、頭をかきむしり、すずめの巣のようになっていないでしょうか。
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