キャンプの祝福(四)
     習志野バプテスト教会週報
     二〇〇三年三月二日号

 ▽祝福にみちた人生を
 


 二〇〇二年夏、ホワイト博士のメッセージから


(なんじ)の御前には充ち足れるよろこびあり、汝の右には もろもろの快楽(たのしみ)とこしえにあり。℃黒ム一六篇一一節


 私たちは、神様が下さる楽しみと喜びか、この世が与えてくれる楽しみと喜びかを選択しなければなりません。


信仰に由
(よ)りてモーセは人と成りし時、パロの女(むすめ)の子と 称(とな)えられるを否(いな)み、罪のはかなき歓楽(たのしみ)を受けんよりは、

 むしろ神の民とともに苦しまんことを善
(よ)しとし、キリストに因(よ)る謗(そしり)はエジプトの財賓(たから)にまさる大いなる富と思えり、これ報いを望めばなり。

 信仰に由
(よ)りて彼は 王の憤(いきどお)りを畏(おそ)れずしてエジプトを去れり。

 これ見えざる者を見るがごとく耐うることをすればなり。

        ヘブル書一一章二四〜二七節

 モーセの選択が記されています。私たちにも選択のときがあります。一時的な楽しみを選ぶか、永遠の喜びを選ぶかです。


最後に、ステパノの殉教を思います。ステパノは忠実な執事でした。彼は天に召される前に『視よ、われ天開けて人の子の神の右に立ち給うを見る。』(使徒行伝七章五六節)と言いました。

 ステパノが見たのは、イエス様が神の右の座にすわっておられたのではなく、お立ちになっていたお姿でした。「忠実なクリスチャンの死は神の目に尊い」と聖書に書かれています。

 イエス様はステパノを天に迎えようと立って待っておられたのです。死を恐れることはないのです。


十字架につかれる前のイエス様の祈り(ヨハネ伝一七章二四節)は、

父よ、望むらくは、我
(われ)に賜(たま)いたる人々の我が居(お)るところに我と偕(とも)にをり、世の創(はじめ)の前(さき)より我を愛し給いしによりて、汝の我に賜いたる我が栄光を見んことを。

でした。弟子たちをこの世に残して去られるイエス様のお心は、一日も早く弟子たちが御前に来ることを願っておられたのです。

なぜ私の妻が若くして召されたのか考えました。イエス様が彼女を天国に迎えることを願っておられたからです。それは大切なことであり、今、妻は永遠に主と共に歩んでいるのです。

詩篇一六篇一一節のみことばは大変素晴らしいので暗唱するとよいでしょう。

なんじ生命
(いのち)の道をわれに示したまわん、なんじの御前には充ち足れるよろこびあり、汝の右にはもろもろの快楽(たのしみ)とこしえにあり。

          (終)

 

◎ 暗誦聖句 マタイ伝八章二七節

 


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