◆ ロマ書の学び(2)
習志野バプテスト教会週報 二〇〇三年三月三〇日号 ▽信仰の土台 ロマ書一章一〜一七節《キリスト・イエスの僕(しもべ)》 「キリスト・イエスの僕、召されて使徒となり、神の 福音のために選び別たれたるパウロ」(一章一節) 「僕(しもべ)」とは、ただ仕える人という意味ではない。私たちは僕というと、何か立派な御殿に仕えて、また下僕、召使いのように仕えるという形を思い浮かべる。 しかし、 本来使徒パウロが使った「僕」という意味は、奴隷と言う意味である。「デューロス」というギリシャ語で、「しもべ」という意味合いよりもはるかにグーンと下がって、最低の、いわば自分の自由を全て奪い取られた形の奴隷の姿という形で、使徒パウロは自らを「キリスト・イエスの奴隷」と言ったのである。 「サーヴァント」あるいは「僕」と言うとかっこ良く聞こえるが、奴隷というと大変悪いイメージである。にも関わらず、パウロは敢えて「キリスト・イエスの奴隷」と言う言葉で、人々の前に自らの証しを続けていこうとした。 パウロが考えていた「奴隷」は、旧約聖書の出エジプト記に記されている。奴隷であった者がユダヤ人の愛と恩を受けて、自由な身分になった後も生涯その家族と一緒に過ごすと決意した奴隷である。 そういう意味で、パウロは「キリスト・イエスの奴隷」と言ったのだ。全く自由を剥奪(はくだつ)された、何の自分の決断も出来ないという意味での奴隷ではない。喜んで自らを神様の僕として、また奴隷のように、自分の意思ではなくしてご主人であるイエス・キリストのご命令にどこまでも従って行きます、とことんイエス様に従います、という姿の表現である。 さて、あなたは果たして「私はキリスト・イエスの僕(しもべ)」と言うことが出来るだろうか。「キリスト教会は私の僕」となっていないだろうか。 イエス様の救いは、「私がこの地上にあって生活するための便宜的な助け」というふうに考えていないだろうか。世の中には、信仰でさえも自分の立身出世のために、あるいは自分の経済的な利益のために利用する人たちが多くいる。現に日本の裁判所にはこうした宗教裁判が数多くある。 仏教系統や新興宗教、またキリスト教の異端の中でも現在裁判にかかっている例がたくさんある。特に異端の中には、信仰や宗教を自分達の利益のために使っているものがあり、日本の裁判所の判断では、それまで通っていた信者たちに何千万という金額を返せ、という判決が出ている。 私たちは、自分達が「イエス様と私との関係」ということにおいて考える必要がある。(続く) ◎ 暗誦聖句 マタイ伝七章一二節
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