◆ ロマ書の学び(6)
習志野バプテスト教会週報 二〇〇三年五月一一日号 ▽信仰の土台 ロマ書一章一〜一七節
《キリスト・イエスの僕(しもべ)》 大切なポイントとして覚えていただきたいことは、「従う」ということと「信じる」「信仰」ということである。 「服従する」ということと「信仰」ということは多くの場合、ぴったりくっついた言葉である。私はイエス様を信じますと言う時に、イエス様に従っていきますということを表わす。頭ではイエス様を信じますと言って、自分の心は全然遠くに離れていってしまって、別のことをやっているというのはそれは信仰のあるべき姿とは言えない。それぞれに聖書を読む、そしてまた神様に祈り、祝福を頂いていると思う。 この短い二、三の聖句から分かることは、イエス様を信じる者たちはまず神様に、パウロが言ったと同じように自(みずか)らを僕(しもべ)として、奴隷のように明け渡す、そして「神様、あなたの御心のように私をお使い下さい。」と明け渡す姿、これが祝福の第一歩である。
仮に私がA兄弟に百万円の借金をし、明日、耳をそろえて返さなければならないのに、手元にはお金が百万までないとする。A兄弟がむこうから来たら、私は挨拶もそこそこに背を向けるようにして恥ずかしそうに逃げて行くだろう。誰かに多額のお金を借りているというと、言いたくても言えない、そういう負い目を感じるものだ。 同じようにパウロはこの当時の文化人と言われたギリシャ人でも、あるいは未開人に対しても、賢い者にも愚かな者にも私は負い目がある、借財があると言ったのである。あたかも経済的な借金をしているかのように、私はただ、神様のことを知らない、イエス様のことを知らない人達に対して、負い目がある。何とかしてこの借りた分をお返ししなければならない、という思いを持ったのである。(続く) ◎ 暗誦聖句 コリント前書一五章五八節 |