◆ ロマ書の学び(7)
習志野バプテスト教会週報 二〇〇三年五月一八日号 ▽信仰の土台 我はギリシャ人にも夷人(えびす)にも、智(かしこ)き者にも愚かな る者にも負債(おいめ)あり。=@ ロマ書一章一四節
使徒パウロは、あたかも経済的な借金をしているかのように、「私は、神様のことを知らない、イエス様のことを知らない人達に対して、負い目がある。何とかしてこの借りた分をお返ししなければならない。」という思いを持ったのである。 では、実際にパウロは借金をしたのだろうか。借金はしていない。にも関わらず彼は、まだ神様のことを知らない人達、救われていない人達に対して、私たち先に救われた者は、イエス様の素晴らしい愛と憐れみ、天地万物をお創造(つくり)になった創造主なる神様を伝え、その人々が神様の恵みによって永遠の命を頂くことが出来るようにイエス様のことをのべ伝えなければならない責任があると言った。 皆さんはどうだろう。宣教師の先生が日本にいらっしゃるために何か頼んだだろうか。アメリカに「どうぞ習志野に、私のために宣教師を送って下さい。」とお願いしただろうか。否、全然頼んでいない。 しかし、宣教師の先生方は「私はどうしても日本の人達に伝えなければならない神様の素晴らしい福音がある。人間を罪の滅びの中から救い出すためのイエス様のメッセージをお伝えしなければならない。」という使命感と、そしてまた先に救われた者の思い、をもっている。 そういう意味で宣教師は日本人に対して「私は重荷があります」と言う。「重荷がある」ということは、あなたが救われるまで私は祈り続けます、あなたの救いのため私は生涯祈り、証ししつづけますということだ。先に救われた者として、滅びの中にいる人々のために祈り、負い目を負った者として日々の生活の中でイエス様の証しをたてていこうではないか。
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