◆ ロマ書の学び(11)
               
        習志野バプテスト教会週報 
        二〇〇三年六月一五日号
        ▽ 主に心をささげる
 
  我はギリシャ人(びと)にも夷人(えびす)にも、智(かしこ)き者にも愚かなる者にも負債(おいめ)あり。この故に我はロマに在(あ)る汝らにも 福音を宣べ伝えんことをしきりに願うなり。

 我は福音を恥とせず、この福音はユダヤ人(びと)を始めギリシャ人にも、凡(すべ)て信ずる者に救いを得(え)さする神の力たればなり。

 神の義はその福音のうちに顕(あらわ)れ、信仰より出でて信仰に進ましむ。録(しる)して『義人(ぎじん)は信仰によりて生(い)くべし』とある如(ごと)し。
   ロマ書一章一四〜一七節 
 一四節は、新改訳では「私はギリシャ人にも未開人にも知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。」となっている。   クリスチャンにとって、大変重要な言葉が幾つも一四節から一七節には入っている。イエス・キリストの福音は救いに至らす神の力である。イエス・キリストの福音とは何か。神様の福音は、貧しさを持つ人々に対する神からの救いのメッセージであり、また、お金持ちに対する福音でもある。

 人間がこの地に蓄える宝というものは、決して死後の世界にまでそれを背負っていくことはできない。どんなに高くお金を積み上げたとしてもである。 
 中国人は、誰かが亡くなると、たくさんの葬儀用に作ったニセのお札の束を弔いのときに一緒に埋葬する。「このお金があるから、あなたはあの世に行っても安心できますよ。」というわけだが、それは、あくまでも人間が作った考え方であって神様の前には通用しない。
  かつて、初めて宣教調査にシンガポールに行った時、私はシンガポールの大きな銀行三つを持っていた銀行家のところに泊めてもらった。彼は、かつての宗主国イギリスの政府から、男爵という称号をもらった有名な銀行家であった。

 宣教師がその奥さんの持っていた一軒家を借りて伝道をしていたため、私はその銀行家の家に行き、夫人に出会った。なんと世界の高級車キャデラック、ロールスロイスなどが、八台も庭に並んでいたのである。びっくりして「これはだれが乗るんですか。」と聞くと「私と主人です。」と言うのだ。

 ところがこの奥さんは「家には、たくさんの召使や雇い人がいます。また車もこんなにありますけれど、いちどきには車一台しか乗れませんものね。」と言うのである。確かに、どんなにたくさん車があっても、一回運転するときには一台しか乗れない。

「どうしてこんなに、高級車をたくさん持つのですか。」と尋ねると、彼女は「私は主人の愛が欲しいのです。」と答えた。ご主人は、毎日のように忙しい忙しいと家を空けるので、自分はたまらなくなって、次から次へと新しい車を買ったりいろんな物を買うのだが「でも、自分は本当の満足はありません。」と言うのだ。

 小さな伝道所の集まりだったが、私もお話をして、そのとき彼女は初めて、イエス・キリストの福音を聞き、「ああ私は自分が長い間求めていたものが、車やたくさんの召し使い、宝物に囲まれた住居ではなく、魂の救いが必要であったという事がわかりました。」と言ってイエス様を迎え入れたのである。    (続く)  
 ◎暗誦聖句 マタイ伝七章二四節さらば凡(すべ)て我がこれらの言(ことば)をききて行う者を、磐(いわ)の上に家をたてたる慧(さと)き人に擬(なずら)えん。
 
 


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