◆ ロマ書の学び(13)
               
        習志野バプテスト教会週報 
        二〇〇三年六月二九日号
        ▽ 主に心をささげる
   我はギリシャ人にも夷人(えびす)にも、智(かしこ)き者にも愚かな る者にも負債(おいめ)あり。この故に我はロマに在(あ)る汝らにも 福音を宣べ伝えんことをしきりに願うなり。 =@             ロマ書一章一四〜一五節
  輸血をしなければもう死んでしまう患者がいて、献血された輸血をその患者に運ばなければならない責任を持っている、これが私達クリスチャン一人一人であると思ってほしい。消防自動車でもパトカーでもなく、横腹に赤い十字のマークの入った、輸血あるいは人体の一部を移植する為に使う医療用の緊急自動車がある。

 輸血をするためには一刻を争うことがあり、輸血を待っている患者に「私達は疲れているので、昼寝をしてから行きますから。」などとは言えない。手術をして大量の出血をしている患者に今すぐ輸血が必要である。

 その輸血を、血液を運ぶのが私であり、皆さん一人一人だということを覚えてほしい。そうすれば、パウロの言った私はすべての人に対して負い目がある≠ニいう事がわかってくると思う。

 神様はすでに、イエス・キリストの十字架を通して私達に救いの道をお示し下さった。そして、私はそのイエス・キリストの血によって罪の力から解き放たれたのである。今度は私が、キリストの血を必要とする人のところにそれを携え持って行かなければならない番なのだ。
 

我等はみな必ずキリストの審判(さばき)の座の前にあらわれ、善にもあれ悪にもあれ、各人(おのおの)その身になしたる事にしたがいて報(むくい)を受くべければなり<Rリント後書五章一〇節
 
キリストの愛われらに迫れり。我ら思うに、一人すべての人に代わりて死にたれば、凡(すべ)ての人すでに死にたるなり。=@   
  コリント後書五章一四節
 
人もしキリストに在(あ)らば新(あらた)に造(つく)られたる者なり。古きは既(すで)に過去(すぎさ)り、視(み)よ新しくなりたり。これらの事はみな神より出(い)づ、神はキリストによりて我らを己(おのれ)と和(やわら)がしめ、かつ和がしむる職(つとめ)を我らに授(さず)け給えり
    コリント後書五章一七、一八節
 
 すべての人間は、年長者も若者も幼い子供も、神様のさばきの座の前に立たなければならない時が来る。使徒パウロはこのコリントの地域にいたクリスチャン達にこう書いた。 
 「イエス・キリストの愛が私に迫ってきている。私はその愛で押しつぶされそうである。早くイエス様のこの愛を人々に伝えなければならない。自分は新しく創造られたものであり、神と人間との和解の使者、大使、メッセンジャーである。」と。         (続く)  

◎暗誦聖句 マタイ伝八章一三節 


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