◆ ロマ書の学び(14)
               
        習志野バプテスト教会週報 
        二〇〇三年七月六日号
        ▽信仰によって生きる
 

 

 神の義はその福音のうちに顕(あらわ)れ、信仰より出(い)でて、 信仰に進ましむ。録(しる)して『義人(ぎじん)は信仰によりて生(い)く べし。』とある如(ごと)し。=@    ロマ書一章一七節

 使徒パウロは、ロマ書一章一七節を引用し、

義人は信仰によりて生くべし≠ニ言っている。この大変有名な、キリスト教信仰の中心といえる言葉は、旧約聖書に書かれている。ある教会は、自分たちはキリスト教徒として新約聖書だけが信仰の基盤だといっている。しかし、私たちは決してそうではないと思っている。

 クリスチャンの信仰生活は、旧約聖書、創世記から新約聖書の黙示録にいたるまで、すべて神様の霊感をいただいた書物であって、新約聖書だけではイエス様の生涯とみわざを理解することはできない。

 また、旧約聖書だけでは、いまだにメシアの到来を待ち望む状態だけにあるといえる。旧約聖書の預言と預言者すべてが主イエス・キリストの生涯とみわざを表わし、私達が旧約聖書、新約聖書を切り離して別々に考えることは、聖書の基本的な教えから、外れていることになるのだ。

 義人は信仰によりて活
(い)くべし。
               ヘブル書一〇章三八節

 創世記の中に、信仰の父と呼ばれるアブラハムの生涯をみることができる。彼ははじめから「アブラハム」という名前ではなく、最初は「アブラム」という名前であった。彼は異邦人の地に住んでいた。父親は偶像崇拝の信者であったが、その中にあって、神様はこのアブラハムを神様がお示しになる約束の地にみちびかれた。私たちは、神様を信じる者たちが信仰によって生き、信仰によって神の前で正しいものとされることを学ぶ。

 それ神の怒
(いかり)は不義(ふぎ)をもて眞理(まこと)を阻(はば)む人の、もろも ろの不虔(ふけん)と不義とに対(むか)いて天(てん)より顕(あらわ)る。        ロマ書一章一八節



 この一七節、一八節は実は密接な関わりがある。神様に喜ばれる人生は、一七節である。神様から罰を受けなければならない罪の中に生涯を終える人たちは一八節に書かれている。一七節、一八節はきわだった対比をしている。

 神様は人間を救おうとなさった。そして人間の荒れすさんだ心、さらに堕落
(だらく)しきった生活の中に神の側で人間のために、神の厳しい裁きから逃れる道を備えようとして、イエス様をこの世につかわして下さったのである。人間の情感は全く手の施(ほどこ)しようのないほど、無残であり、望みのない姿で、また神の恵みなくして一日たりとも生きのびることのできない状況にある。

        (続く) 

 

◎ 暗誦聖句 マタイ伝八章八節

 


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