◆ ロマ書の学び(16)
               
        習志野バプテスト教会週報 
        二〇〇三年七月二〇日号
        ▽信仰によって生きる
 

 

 今は、まさに人間の手で人間をつくる時代である。何かの規制がなければ、それはとうにあちこちで始まっているに違いない。こうしている間にも、医療に携(たずさ)わる学者たちの中には、法律規制に隠(かく)れて邪(よこしま)な思いをもって、実験している人がいないとは言えない。

 子供が欲しくても与えられない家族は、今、日本で人工的に産む場合は、保険がきかないので、少なくとも一千万円かかるそうである。しかも必ずしも子供が与えられるとは限らない。お金で人間の命が買えるであろうか。イエス様はこうおっしゃっている。

人は全世界をもうけても、自分の命を損(そん)したら何の益(えき) になろうか。=@       マルコ伝八章三六節

 ロマ書一章一八節に神の怒り≠ニあるが、神様は人間のように気分が悪いから怒るというお方ではない。神様が怒るとおっしゃる時は、神の正義をやぶり、しかも神の御名をふみにじる人たちに対しての、当然な事としての怒りを意味している。神様は常に人類に対して、神の真理を人々に理解するように、啓示(けいじ)を与えて下さる。神様は私たちのために日々、様々な形(かたち)でご自身の存在を教えて下さる。

 本来の伝道の意味は、「現在進行形」なのである。昔アブラハムに教えたのではなく、今もずっと代々世界の人たちに対して、神のいらっしゃることと、神の真理をあらわし続けて下さっている。私たちは、神様から与えられているこの継続的な真理のときあかし(・・・・・)を無視してはならない。

 アメリカの科学者の多くが、今、創世記の記述はその通りであると言っている。一方、日本の科学者は、聖書は神話で、愚(おろ)かな書物であると、聖書の教えを無視している。アメリカの医療、病院と比較すると、日本はアメリカより二〇年遅れていると言われている。

 私たちは、神様が下さった生命、生命の源を絶えず考え、神様の御前に何のために生き、どこへ行くのかを考え、聖書から学びとっていかなければならない。人間は神の姿に象(かたど)られて作られた。子供の頃、親に叱(しか)られると、こんな家に生まれてくるんじゃなかったと悪態(あくたい)をつき、何でこんな家に、と親にくってかかった。どうせ生まれるなら、金持ちの家にと、いかにも地上に出てくるのは自分が選んだような口答えをしたことがあると思う。

 大病を患(わずら)うと人間の生命の不思議を覚(おぼ)え、生命には持久力があると感じるだろう。死ぬか生きるかの大きな病やけがをした時、自分ではどうにもならない時に、「後は生命力や寿命があるかどうかです」という医者の言葉を遠くで聞く。出来る事は全てやったという医者も、人間の体の不思議、生命力を感じているのである。神様は、私達を地上に生かして下さり、神の栄光を表わすように日々、生命を与えて下さっている。(続く)


◎ 暗誦聖句 マタイ伝八章一三節「 」内


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