◆ ロマ書の学び(17)
習志野バプテスト教会週報 二〇〇三年八月三日 ▽信仰によって生きる それ神の怒(いかり)は不義をもて眞理(まこと)を阻(はば)む人の、もろもろ の不虔(ふけん)と不義とに対(むか)いて天より顕(あらわ)る。
そうしたことが、神様を求めるきっかけとなった。青年時代はいろいろ考えるし、誘惑もある。たえず信仰について考えていたわけではないが、生命とは何だろう、自分はなぜ生かされているのか、と考える時がある。「もし超自然的な力を持つ神がいるなら、神の力を利用したい。ご利益を求めて神を利用したい。」という思いがある。 有名な学者が言っている。「世界の人にとって、世界をお治めになる全能の方がいらっしゃることを何かの形で認めることが必要である。認めなければ、世界は戦争の火で焼かれてしまう。」と。あるいは、多くの科学者は、日本の科学者も含めて、「この世の中を救うためには、何らかの形で神を認めなければならない。人々は、殺りく(・・・)に殺りく(・・・)を繰り返し、人殺しを続けて、やがて地球は滅んでしまう。」と言っている。
クリスチャンでない人は次のように言う。「もし神がいなければ、自分たちで神を作らなければならない。」と。今から二〇年前の話である。これが科学者の出した答えであり、人々が世界平和を求めて考えた結論である。しかし、人間が浅はかな知恵で、神々を作る必要はないのである。すでに神は、一人一人に生命を与えて下さった。(続く)
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