◆ ロマ書の学び(18)
               
        習志野バプテスト教会週報 
         二〇〇三年八月 一〇日
        ▽信仰によって生きる
 

  人間の罪は、生命(いのち)の源(みなもと)である真の神様がいらっしゃるのに、認めないことである。神様は私たちに自然界を通して真の神、創造主がいらっしゃることを教えていらっしゃる。


 もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はその手(みて) のわざをしめす。=@ 詩篇一九篇一節

  すべての人は天の星、太陽を見つめて、創造主がいらっしゃることを知ることができる。いろいろな品種のある花を例にとっても、繊細(せんさい)なものを人は作ることができない。生の花にしか、蜂はこないのである。


 人間は神が作られたものを見て作っている。神様は自然界を通して、神のいらっしゃることを表わされている。 

  即(すなわ)ち律法(おきて)の命ずる所のその心に録されたるを顕(あらわ)し、 おのが良心もこれが証をなして、その念(おもい)、たがいに 或(ある)いは訴え或(ある)いは弁明す。=@  ロマ書二章一五節


 すべての人間の心のうちに良心が与えられている。

  しかし良心とは、すべての民族が同じであるわけではない。日本人には日本の社会に、外国人には外国の規律において良心がある。

   だまって人のものを取る時、別の宗教の人は、人が二つ持っていれば一つもらって当然と考える。良心の痛みを感じまい。良心は、教えられた社会の基盤にしたがって痛みを覚える。「神様はいないぞ」と育てられていると、神様のことを聞いても無感動であり無関心である。心の痛みも感じないことだろう。


 汝の少(わか)き日に、汝の造主(つくりぬし)を記(おぼ)えよ。
               伝道之書一二章一節


  どの社会にいても、悪いことをすれば罰がくることを知っている。神様を認めないで、神の立てる秩序をふみにじると罰がくる。私たちは心にある良心のとがめを通しても、神を知ることができる。


 神はさらに第三の光を与えて下さる。第三の啓示は、書かれた神のみ心、聖書である。神様の求めていらっしゃる正義とは何か、そして人間はどういう存在なのかということを知らされる。人間は無関心の罪、そして偶像崇拝の罪、不道徳の罪をおかす。ロマ書は、人間はよこしまな邪悪の心のために、神を認めようとしないと言っている。

  悪いことをする人は、光を好まない。光のもとに来ようとしないし、光に照らされることを喜ばない。若ければ若いほど神を信じる年齢である。年齢を重ねるにつれて、ごまかしたり、痛みを感じにくくなる(イザヤ書一章二〜六節)。常に幼児のようにならなければならない。                 (続く)



◎暗誦聖句 マタイ伝七章一三節
 


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