◆ ロマ書の学び(20)
               
        習志野バプテスト教会週報 
         二〇〇三年八月 二四日号
        ▽信仰によって生きる
 

 〈ロマ書一章一〜一八節〉


それ神の怒りは不義をもて真理(まこと)を阻(はば)む人の、もろもろの不虔(ふけん)と不義とに対(むかい)て天より顕(あらわ)る。
                 ロマ書一章一八節


 クリスチャンでない日本人は「キリスト教は愛の宗教である」と言い、クリスチャンも愛を強調する。なのにどうして神様の怒りや神の裁きを語るのか、と疑問に感じるのは自然といえよう。


 私たちはもう少し「愛とは何か、神様の怒りとは何か」を聖書を通して考えてみる必要がある。多くの人は何でも受け入れるのが愛だと考える。


 日本人に「どういう信仰を選ぶか」と質問すると「もし信じるならばキリスト教が良い。でも厳しいから、なんでもOKという仏教がよい。」との答えが出る。

  日本人は「仏教徒」が多い。仏教はもともと無神論であり、神はいないと考える。無神論とあきらめを強調する。仏教は「何でも良いからいらっしゃい」と暖かく包み、日本人には観音様は愛の女神と言われている。


 一方、日本には歴史の中でキリスト教徒への迫害という事実がある。飛騨高山には隠れキリシタンの墓がある。隠れキリシタンは日本の幕府がキリストを信じる人々を迫害したため、天井裏に信じる書物を隠したり、墓石の上には観音様を書いて、そのおでこ(、、、)に十字架、地面の下の方にマリア何々と、洗礼名を書いた。実際そこに行ってみて、日本の民族的な歴史、血みどろの戦いがあったことを知り、身の引き締まる思いがした。

  「愛」はすべて何でもよいというものではない。かりに母親が自分の赤ちゃんを盗まれた時、むこうで世話をしてくれるからいいわと考えるだろうか。

  半狂乱になり子供を探し、自分が血を流す事があっても、いとわない。愛は愛する者を失うことをおそれるし、奪い返そうと戦うものである。

  もし学校で、親をうやまわなくてもよい、自分の好き勝手なことをして生きてよい、と教えられたら私たちはその学校から子供を連れ戻すに違いない。愛は愛するものを守ろうとし、間違ったものから奪い返そうとする。


 神様は決して何でもかんでも罰を与え、さばきを与える方ではない。神様の真理の言葉を曲げ、神様以外の物に自分達の人生をゆだねようとすることに対して、怒りをお持ちになる。全て邪(よこしま)な事をしようとするもの、まがった事をやる者達に対して神の怒りがあらわされるのだ。  (続く)


◎ 暗誦聖句 ガラテヤ書二章二〇節BC
最早(もはや)われ生くるにあらず、キリスト我が内にありて生 くるなり。


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