◆ ロマ書の学び(21)
               
        習志野バプテスト教会週報 
         二〇〇三年九月一四日号
         ▽信仰によって生きる

さらばいかん、我らの勝(まさ)る所ありや、有(あ)ることなし。我ら既(すで)にユダヤ人(びと)もギリシャ人(びと)もみな罪の下に在(あ)りと告げたり。

録(しる)して『義人なし、一人だになし、聡(さと)き者なく、神を求むる者なし。みな迷いて相(あい)共に空(むな)しくなれり、善をなす者なし、一人だになし。

彼らの咽(のど)は開きたる墓なり、舌には詭計(たばかり)あり、口唇(くちびる)のうちには蝮(まむし)の毒あり、その口は詛(のろい)と苦(にがき)とにて満(み)つ、その足は血を流すに速し、破壊(やぶれ)と艱難(なやみ)とその道にあり、彼らは平和の道を知らず。

その眼前(めのまえ)に神をおそるる畏(おそれ)なし』とあるが如(ごと)し。それ律法(おきて)の言うところは律法の下にある者に語ると我らは知る、これは凡(すべ)ての口ふさがり、神の審判(さばき)に全世界の服せん為(ため)なり。

律法(おきて)の行為(おこない)によりては、一人だに神のまえに義とせられず、律法によりて罪は知らるるなり。然(しか)るに今や律法の外(ほか)に神の義は顕(あらわ)れたり、これ律法と預言者とに由(よ)りて證(あかし)せられ、イエス・キリストを信ずるに由(よ)りて凡(すべ)て信ずる者に与えたもう神の義なり。

之(これ)には何等(なにら)の差別あるなし。凡(すべ)ての人、罪を犯したれば神の栄光を受くるに足らず、功(いさお)なくして神の恩恵(めぐみ)により、キリスト・イエスにある贖罪(あがない)によりて義とせらるるなり。

           ロマ書三章九〜二四節


 ユダヤ人からみると、ユダヤ人以外は異邦人、つまり外国人であり、ユダヤ人がいてそれ以外の異邦人がいる。もちろん私たちも異邦人である。

  ユダヤ人には神様の真理の言葉が託されたが、真理の言葉を守り、全世界の異邦人に伝えようとしなかった。また自分達は神に選ばれたと豪語していたが、神のご命令に従っていなかったため神の怒りが下るということが、ロマ章二章一節〜三章二〇節に書かれている。


 神様は人間一人一人に、自分達を造って下さった全世界の創造主がいるであろうと考えていく「良心」と、生まれながらに「信仰する」という感情を与えられた。

  残念な事にカール・マルクスという共産主義を唱えた人物は、子供の頃、日曜学校の教師がしっかりと教えなかったため、成長するに従い、神様に敵対する共産主義を唱えていくようになった。

  私たちは、神様の正しい基準、人間としての生き方を小さい子供の時から植え付けて、一人一人の良心のはかりを生み出していく。お母さんのお腹にいる時から、神様をほめたたえ神様に敬意を表す心をもつなら良心はそれによって行動し判断していく。けれども、狼に育てられた子供は私たちのような良心の働きを持たず、動物の掟に従う様になる。   

            (続く)


◎ 暗誦聖句 第一ヨハネ伝四章一五節
凡(おおよ)そ イエスを 神の子と 言いあらわす者は
  神 かれに居(お)り、かれ 神に居(お)る。
 


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