◆ ロマ書の学び(23)
               
        習志野バプテスト教会週報 
         二〇〇三年九月二八日号
         ▽信仰によって生きる

 

 人間は永遠の生命と強い力を求めながら、それらをお与え下さる神様に従おうとしない。神様は神様に従う人達には永遠に側(そば)にいて下さる事を約束して下さっている。親を敬うことなく親を殺したり粗末にする子供に対して裁きが来るように、神様をないがしろにする人間に対しても厳しい裁きがあるということがロマ書一〜二章に述べてある。


然(さ)らばユダヤ人(びと)に何の優(すぐ)るる所ありや、また割礼に何の益ありや。凡(すべ)ての事に益おおし、先(ま)ず第一に彼らは神の言(ことば)を委(ゆだ)ねられたり。

 されど如何(いか)ん、ここに信ぜざる者ありとも、その不信(ふしん)は神の真実を廃(す)つべきか。決して然(しか)らず、人をみな虚偽者(いつわりもの)とすとも神を誠実(まこと)とすべし。

 録(しる)して『なんじはその言葉にて義とせられ、審(さば)かるるとき勝(かち)を得(え)給わん為(ため)なり』とあるが如(ごと)し。然(さ)れどもし我らの不義は神の義を顕(あらわ)すとせば何(なに)と言わんか、怒(いか)りを加え給う神は不義なるか。

 決(けっ)して然(しか)らず、もし然(しか)あらば神は如何(いか)にして世を審き給うべき。わが虚偽(いつわり)によりて神の誠実(まこと)いよいよ顕(あらわ)れ、その栄光とならんには、いかで我(われ)なお罪人として審かるる事あらん。

 また『善を来(きた)らせん為(ため)に悪をなすは可(よ)からずや』。斯(かか)る人の罪に定めらるるは正(ただ)し。さらば如何(いか)ん、我らの勝(まさ)る所ありや、有(あ)ることなし。

 我ら既(すで)にユダヤ人(びと)もギリシャ人(びと)もみな罪の下に在りと告げたり。
       ロマ書三章一〜九節

  ユダヤ人は自分達は神様から律法を与えられていると豪語していた。社会生活の中で神様の前に聖別された者として契約としての「割礼(かつれい)」を受けていた。「割礼」というものは信仰があってはじめて意味があるが、信仰がなければ何の意味もないものである。

 新約時代になると、割礼は信仰のあかしではなくなった。体にではなく、心に割礼を受けよ、というのである。「心の割礼」とは、罪の世界から神様によってきよめ分(わか)たれ、分離をさせられることである。罪の状態は、ユダヤ人も全(すべ)ての外国人も同じである。

 

 神様を認めていない不信仰、不従順の罪の故に神様は裁きをお与えになる。神様の律法、旧約聖書のおきてを持つ者も持たない者も等しく神様の前に口を塞(ふさ)がなくてはならない、というのが三章一九節である。

律法(おきて)の行為(おこない)によりては、一人だに神のまえに義とせられ ず、律法によりて罪は知らるるなり

     ロマ書三章二〇節
                        (続く)


◎ 暗誦聖句 マタイ伝七章二四節
さらば凡(すべ)て我(わ)がこれらの言(ことば)をききて行う者を、磐(いわ)の 上に家をたてたる慧(さと)き人に擬(なずら)えん。
 


本ページへの問い合わせは ruthdick@mtj.biglobe.ne.jp までお願いします。