◆ ロマ書の学び(28)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇三年一一月二日号
         ▽信仰によって生きる

 

 ロマ書の三大テーマの「義」という言葉の意味するところは即ち、イエス・キリストを信じるならば、私たちは神様によってまだ一度も罪を犯したことがないと同じように認められるということである。信仰によって義と認められることから「信仰義認」という言葉ができている。


 義認の次に、イエス様を信じる人たちが、日々の生活の中で聖書を読み、黙想し、それを日々の生活に当てはめていき、知らず知らずのうちに神様の前にあって生活が変えられていき、神様に喜ばれるものに変わっていく。毎日毎日、古い生活から離れて新しい清められた生活に進んでいくのが清く変えられるということで、聖書の聖という字に化粧の化で「聖化」という。


 ロマ書の三大テーマの第一は「義認」、義と認められること。第二は「聖化」、清く変えられるということである。罪人がイエス様を仰ぎ望むことによって、一日一日先に進んで、イエス様のお姿に似るように変えられていくということである。義認、聖化に続いて第三は、やがて天においてイエス様と同じような栄光の姿に変えられることである。


 まず、ロマ書の三つのテーマの第一番目の義認について考えてみよう。ロマ書三章二一節から二四節、

然(しか)るに今や律法(おきて)の外(ほか)に神の義は顕(あらわ)れたり、これ律法と預言者とに由(よ)りて證(あかし)せられ、イエス・キリストを信ずるに由りて凡(すべ)て信ずる者に興(あた)えたまう神の義なり。之(これ)には何等(なにら)の差別あるなし。凡ての人、罪を犯(おか)したれば神の栄光を受くるに足(た)らず、功(いさお)なくして神の恩恵(めぐみ)により、キリスト・イエスにある贖罪(あがない)によりて義とせらるるなり。

 神様の義とは何を意味するのか。日本人は昔から義という言葉が大変好きな民族である。群馬県の人などは、国定忠治(くにさだちゅうじ)という有名な人物の物語りを聞いてきたと思う。なぜ国定忠治は有名であり、日本人に愛されてきたのだろうか。それは義という一つの言葉にある。国定忠治に使われた義は、勿論、聖書の言葉とは月とスッポンのような違いがある。似て非なるものというか、似ているようで本質的に違うものである。


 義という言葉は、日本人は小さい時から聞かされてきたのでなじみのある言葉である。しかし、聖書で神を義という時には、それは天地万物のすべてのものをお創(つく)りになった創造主であるまことの神様が持っていらっしゃる神ご自身の性格的な義という意味をもつ。

 

 それ故、人間が自分が正しいとか、私は義を重んじるとかいう義とは雲泥(うんでい)の差がある。すべてのものをお創(つく)りになった創造主である神様の本質が、神は義なるお方であるということなのである。      

      (続く)

 
◎ 暗誦聖句   マタイ伝七章二六節


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