◆ ロマ書の学び(29)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇三年一一月九日号
         ▽信仰によって生きる

然るに今や律法の外に神の義は顕(あらわ)れたり、これ律法と預言者とに由りて證(あかし)せられ、

                ロマ書三章二一節


 では、義なる神様の性格とは何か。それはまず第一に義そのもの、正義、あるいは裁判における正しい裁き、そして完全さ、神様ご自身が持っていらっしゃる正義と正しい裁きをなさるということである。同時に、神様ご自身が全く一点の翳(かげ)りも無く、罪けがれも無いお方だということを表す。

 そして、この全能の神様のけがれなき義の前に立つ私たち人間は、全くけがれた、例えば、自動車のエンジンルームを開けて油を拭いたボロボロの汚い布のようなものである。それを旧約聖書の預言者イザヤは、人間の義はぼろ布のようであると言っている。

 どんなに私たちが絶対バチが当たらないほど正しい生活をしてきたと言っても、私たちの生活を神様がご覧になる時、それはけがれてどうしようもないものであるということなのだ。ウェディング・ドレスの白はけがれがない純白であることを表す。まだ一度も使ったことのない白いハンカチと、二、三回使って漂白剤で洗濯したハンカチと比べてどちらが白いだろうか。

 私たちは、どんなに白いと自慢しても、やはり生活の垢、ほこりというものはハンカチの中に染みついていく。まっさらな白いハンカチと、洗ったものであっても使ったハンカチでは比べてみると歴然とちがいが判ってくるものである。

 人間には正しい行いと思えるものであっても、神様の純白な義の前に立たされるときそれはけがれに満ちた状態である。使徒パウロは、ロマ書一章・二章において、神様から旧約聖書の律法を与えられたユダヤ民族にしても、何一つ誇るところが無いと言っている。

 彼らは神様の律法を破り、そして又、モーセを通して与えられた十戒を完全に守ることさえできなかった。ましてや、神様のお言葉を知らないユダヤ人以外の異邦人は、誰一人として神の前に正しいとか、義とされる者はいない。全ての人間は神様の目にあってけがれに満ちた存在である。義人はいない、一人もいないと聖書に書かれているとおりである。

 こんな状態の人間に対して神様は超法規的な救いの方法をお与え下さった。日本人は誘拐が起こったり国際的な事件が起こると超法規的な扱いをするが、その超法規的な方法によってである。なぜなら、律法、すなわち法律によって人間は誰一人正しい行いを行うことができないし、また、律法は人間に服従することを要求する。
                 ( 続 く )


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