◆ ロマ書の学び(30)
マイ・カーの部品を売っているところや、スーパーでもスピードオーバーをチェックするレーダーを売っている。昔はネズミ捕りと言っていた。スピードをオーバーしているとお巡りさんが棒を出して、「ちょっとこちらへ、免許証を拝見」となる。 私も一回やられた。私が捕まったのは一六号線で流山に行こうとして米本団地の坂の付近で、大型トラックに追いたてられてスピードを出したところをやられた。ひどい運転手だと思う。私たちに無理やりスピードをださせるため彼はすぐ後について追いたて、ニタッと笑って走り去った。 日ごろおとなしい女性であっても、一旦車に乗ってハンドルを持つと、えっ(、、)と驚くような運転をする。普段は淑やかでおとなしい人がハンドルを握ると、「バカモノ」とか大声で言って他の車を追い抜いたりする。恐ろしいなと思う。これもまた人間の心の罪の表れだと思う。どんなに法律でやってはいけないと言われても私たちは、やってしまう。皆さんも若いころ規則を破ったり、親の言いつけを守らなかったのではないだろうか。 親のいいつけを守っていることを自慢する人はかえって怖い。ある日突然、きれてナイフを持って振り回し、人を殺してみたかったなどというのが出てくる。やはり、これまた人間の心の中に潜(ひそ)む罪なのである。そういう意味で、法律は人間を救わない。救う力がない。 そこで神様は超法規的に救いの方法をお与えになった。それがロマ書三章二一節からの「しかるに、今や掟(おきて)のほかに神の義は現れたり。」ということである。全く罪けがれのないイエス様のお姿のなかに私たちは神様の義を見ることができる。また神様の完全な神格はイエス様においてはっきりと現された。 さらに、人間が理想とする生き方、その理想像がイエス様の生涯の中に表されている。そして私たちの人生の目あて、私達がどのような時にどのように行動したらよいかというパターン・型は、イエス様のなさった御(み)わざ、言動の中にみることができる。 (つづく)
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