◆ ロマ書の学び(31)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇三年一一月三〇日号
         ▽信仰によって生きる

 

「キリストは、すべて信ずる者の義とせられんために律法(おきて)の終わりとなり給えり。」

 イエス様は、イエス・キリストを信じるすべての人達のために、旧約聖書の律法、神様の掟、律法の終わりとなって下さった。これは、ロマ書一〇章四節にある。

 さらに、新約聖書ピリピ書三章九節をみると、「これキリストを獲(え)、かつ律法(おきて)による己(おの)が義ならで、ただキリストを信ずる信仰による義、すなわち信仰に基(もと)づきて神より賜(たまわ)る義を保ち、キリストにあるを認められ」とある。

 私たちは、自分自身の生活の中では、何ひとつ正しいと思われるものはない。神様がご覧になるときに、けがれに満ちているということである。民族博物館や、韓国の民族館などに行くと、昔女性が使っていた手鏡、女性が姿を映してお化粧するための鏡がでてくる。これを見ると大変分厚い銅版で、銀色に鈍い光を放っている。

 あれでよく顔が見えたなと思うような薄暗い表面しかない銅版、それで化粧をした。それで髪を整え、時には川の淵で女性は髪の毛をとかした。髪の毛を洗ったりとかしたりする姿が漢字の女という字になる。今の発達した鏡をみると非常にきれいで、お風呂場の蒸気があっても、蒸気がパーッと消えてしまうくらい立派な鏡である。なまじ、こんなにきれいな鏡を買うんじゃなかったと思うほどである。


 私も白内障が少し出ているので、もうじき手術をしなければならないと言われた。今、境界にあるそうで、聖路加の眼科の先生に「最近、夜、車を運転すると一つのライトが五、六個に見えてきれいなのです」と言うと「それこそ白内障です。」と言われた。光が乱反射して一つのライトが無数に見える白内障の症状が出る。私たちは、自分が美しいと思っていても、光がよく反射する鏡の前に立つと、こんな所ににきびがあった、しみがあった、そばかすやしわがあったとやたらと見えてくる。年をとったら銅板を使ったほうが良いかも知れない。銅板の方が小じわだとかしみを見ないで、いつも美しいと思うかも知れない。


 義を考えるとき、私たちは罪そのものを忘れることができない。正しいものがあればその反対の極に悪いもの、罪がある。神様は、神様がご用意してくださった義の贈り物すべてを人間に与えようと約束なさっている。誰でもイエス・キリストを信じる者には神の義を与えると約束して下さった。そして、義というものを自分の持ち物にして神様から頂くのである。 

      (続く)

◎ 暗誦聖句  マタイ伝七章二一節


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