◆ ロマ書の学び(32)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇三年一二月七日号
         ▽信仰によって生きる

 


  私たちは、何年、何十年と信仰生活を続けても自分自身で正しい義となることはできない。神様に受け入れられる義となることはできない。ここが間違い易いところである。

 「私は信仰歴四・五〇年ですから救われた時より、はるかに義が私のものになりました。」と言うのはとんでもないことで、一生かかっても自分自身では義を得られない。あくまでもそれはイエス様から頂くところの義であって、自分の性質の変化や努力の結果ではない。「その栄光と徳とによりて、われらに尊き大いなる約束を賜えり、これは汝らが世にある欲の滅びを逃れ、神の性質にあずかる者とならんがためなり。」


 信仰生活ですばらしいことは、日を追って年を追ってイエス様のご性質を頂き、毎日毎日心の中に霊的な変化が与えられるということである。皆さんが、お風呂に入って体をこすると出る垢は死んだ細胞である。人間の体の細胞は毎日毎日、新陳代謝をしている。古くなって死んだ細胞が垢となって落ちていくのである。それ以上に私たちの心の中、神様を礼拝するために与えられた霊は、日々新しく変えられていくのである。また肉体が食べ物を必要とするように、霊の人格は神様のお言葉である聖書、霊のまことの乳を慕い求める。


 聖書を読むたびに私たちは自分自身が神様に近づけられ、けがれが毎日洗い流されていく。そして新しく変えられていく。イエス様を信じる人は、一〇年前、去年あるいは今年の初めとは決して同じではない。絶えず新陳代謝をし、成長していく。


神は罪を知り給はざりし者を我らの代りに罪となし給へり、これ我らが彼に在りて神の義となるを得んためなり。

       コリント後書五章二一節

 コリント後書五章二一節を見ると、神は罪を知り給わざりし者、即ちイエス・キリストを私たちの替わりに罪として下さり、私が抱えている罪けがれをイエス様が身代わりとなって受けて下さった、とある。そしてイエス・キリストの中にある私を神様がご覧になる時「私はあなたを許す、あなたが全くけがれがないと同じような状態として認める。」と言ってくださる。無罪放免である。

 もう過去の罪に怯(おび)えて、誰かに後ろ指さされるのをびくびくする必要はなくなったのである。子供時代の友達の誰かが、お前の悪いことを全部知っているぞと言っても大丈夫、イエス様を信じる時に神様によって罪けがれは全部洗い流されるのだ。

 イエス様は私の罪の数々を数えて、お前はこういう悪い人間だとはおっしゃらない。イエス様を心の中にお迎えし、イエス様の十字架の血潮によってすっぽりと、完全にカバーされ、覆(おお)い隠(かく)された、これが贖いの教理である。   

    (続く)

◎ 暗誦聖句 エレミヤ記二三章二九節
エホバ言い給わく 我(わが)言(ことば)は火のごとくならずや、又 磐(いわ)を打砕(うちくだ)く槌(つち)の如(ごと)くならずや


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