◆ ロマ書の学び(32)
「私は信仰歴四・五〇年ですから救われた時より、はるかに義が私のものになりました。」と言うのはとんでもないことで、一生かかっても自分自身では義を得られない。あくまでもそれはイエス様から頂くところの義であって、自分の性質の変化や努力の結果ではない。「その栄光と徳とによりて、われらに尊き大いなる約束を賜えり、これは汝らが世にある欲の滅びを逃れ、神の性質にあずかる者とならんがためなり。」
コリント後書五章二一節 コリント後書五章二一節を見ると、神は罪を知り給わざりし者、即ちイエス・キリストを私たちの替わりに罪として下さり、私が抱えている罪けがれをイエス様が身代わりとなって受けて下さった、とある。そしてイエス・キリストの中にある私を神様がご覧になる時「私はあなたを許す、あなたが全くけがれがないと同じような状態として認める。」と言ってくださる。無罪放免である。 もう過去の罪に怯(おび)えて、誰かに後ろ指さされるのをびくびくする必要はなくなったのである。子供時代の友達の誰かが、お前の悪いことを全部知っているぞと言っても大丈夫、イエス様を信じる時に神様によって罪けがれは全部洗い流されるのだ。 イエス様は私の罪の数々を数えて、お前はこういう悪い人間だとはおっしゃらない。イエス様を心の中にお迎えし、イエス様の十字架の血潮によってすっぽりと、完全にカバーされ、覆(おお)い隠(かく)された、これが贖いの教理である。 (続く) |