◆ ロマ書の学び(33)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇三年一二月一四日号
         ▽信仰によって生きる


 「贖い」、「救い」とはカバーすることである。カペナウムはその言葉のなごりで、ナホムという人の所へ無実の罪で逃げ込む人は、神様がその人を覆ってくださる、カバーしてくださる。カバーナホムでカペナウムである。  

 旧約時代、誤って人を殺してしまった、全く自分が正当防衛であったにも拘らずあなたが捕らわれようとするならば、逃れの町に行けばよかった。大祭司がかわる(死ぬ)までそこに滞在する。そして無罪放免となったのである。  

 過越(すぎこ)しの祭の時にはイスラエルの人たちは子羊の血を取ってドアのかもいに塗った。その血塗られたドアを見る時に、神のみ使いたちがその家を裁かず通り過ぎて行った過ぎ越しの祭と同じなのである。イエス・キリストの十字架を自分のためであったと信じる人は、神様の裁きが来るときに過ぎ越していただける、そして神様は「わが愛する子よ」と呼んでくださるのだ。  

 こんな素晴らしい経験を私たちはお金で買うことはできない。ただ神様の前にひれ伏し、罪深い私を救ってください、罪を許してくださいとお願いするだけで、それは自分のものとなり、生涯あなたの宝となっていく。

すべての人、罪を犯したれば、神の栄光を受くるに足らず。=@         ロマ書三章二三節  

 ここには日本人もロシア人もアメリカ人もイギリス人も全く区別がない。すべての人、一人残らず人間は誰もが神の前に不義を働き罪を犯した。そのために、神様の栄光、即ち清さ、正しさ、正義、完全、あるいは慈愛深さ、愛というものを全く持ち合わせていない。罪の中にある人間は自己中心的であり、罪にけがれ、頭の中で考えることすべて、罪けがれで満ち満ちている。  

 私が伝道者になったばかりの時、同僚の牧師の子供が幼稚園でお買い物ごっこに使うおもちゃのお金を持ってきてお兄ちゃんにこう言った。「角のタバコ屋さんのおばあちゃん目が悪いでしょう。今度このお金を持っていってだまそうよ。」牧師のお父さんはびっくりした。わずか四歳の牧師の子供がおもちゃのお金で、目の悪いおばあちゃんを騙(だま)そうと発想するとは…。その子供はキリスト教の幼稚園に行っていた。まさに人間は罪の子である。私たちは絶対にそんなことは教えないが、教育で人間を変えることはできないのだ。

功(いさお)なくして神の恩恵(めぐみ)により、キリスト・イエスにある贖罪(あがない)によりて義とせらるるなり。
           ロマ書三章二四節  (続く)



◎暗誦聖句   コロサイ書四章二節


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