◆ ロマ書の学び(34)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇四年一月一一日号
         ▽信仰によって生きる

 

 『イエスの愛は海のごと いかなる罪も のみてなれを 清くなし 受け入れたもう 来(こ)よ 来よ 疲れたる者 イェスは愛の手をばのぶ 疾(と)く イェスに来(こ)よ』  

 文語体で書かれているので、わかりにくいかも知れないが、イエス様の愛は海のように、どのような罪も飲み干してあなたを清くして下さり、あなたを受け入れて下さる。来なさい。来なさい。疲れている者よ。イエスは愛の御手をのべて、あなたを迎えます。早くイエスの元にいらっしゃい。≠サういう意味合いの賛美である。

 私たちはこれまで、特に初心者向けの「聖書の中心的な救い」についての学びをしてきた。聖書の骨格的な勉強でもある。ある人は、指輪を手にとって、指輪の上の宝石、それがローマ人への手紙(=ロマ書)であると表現した。聖書の中でイエス・キリストの救いそのものを明確に述べ伝える使徒パウロの書いた書簡である。

神はただユダヤ人(びと)のみの神なるか、また異邦人(いほうじん)の神 ならずや、然(しか)り、また異邦人の神なり。
         ロマ書三章二九節

神は唯一にして、割礼(かつれい)ある者を信仰によりて義とし、 割礼なき者をも信仰によりて義とし給えばなり。

          ロマ書三章三〇節  

 私たちは、聖書のことをよく知らない時に、どうしてもキリスト教というのはイスラエル、今日のイスラエル、ユダヤ人の宗教だと考えてしまう。この日本において、聖書が翻訳されたときに、日本人が使っていた「神」という言葉をこのように聖書に使ったのは間違いであったという学者やクリスチャンもいる。

 しかし、聖書を抜きにして人間には創造主である神様のことを表現できない。昔、日本人は国を治める人々を「上」という字を書いて、それに敬語の「お」をつけて「おかみ」と言った。お上(かみ)の言うことだからしょうがない、お上の言うことだったら間違いないだろうということでいつも、上にたつ者を「おかみ」と称した。そして、聖書を翻訳する時に「旧約の天帝」「天のみかど」という言葉を使うか、それとも、「示す」へんに「申す」(かみなり(、、、、))と書いて「神」をあらわすか論じられたという。

 いなびかり(、、、、、)というのは不思議な力をもつと思われていたので、「神」という言葉を使ったと言われている。現在でも、聖書を日本で子供たちに教えるとき、Godの翻訳に「神」という言葉を使うな、という人達もいる。

 いずれにせよ、世界中どこに行っても、「神様」という概念は一つの言葉で表すことは不可能に近いことなのである。
                  ( 続 く )

 
◎ 暗誦聖句  ネヘミヤ四章九節


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