◆ ロマ書の学び(37)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇四年二月一日号
         ▽信仰によって生きる



 日々の生活において、何かを恐れ、逃げるということは大変不幸な人生だろうと思う。  

 小さい時から何か悪いことをすると、すぐ親や周りの人に「そんなことをするとバチが当たるよ。」と脅かされた覚えはないだろうか?ご飯つぶをお茶碗の端っこにつけたままで「ごちそうさま」と飛び出そうとすると「待ちなさい!ご飯つぶをちゃんと食べなさい。そんなに粗末にするとバチが当たるよ。」と怒られたものだ。

 とにかく、「バチが当たる、バチが当たる」と言われてきた。当然これは、日本人が考える神々で、偶像の神々にバツを受けるということなのである。こうした日本人の宗教感覚などがさすものは、バチが当たる怖い存在の神々、あるいは亡くなった人達の霊である。「仏様を粗末にするとバチが当たるよ。」と言われて、仏壇に手を合わせさせられる。いつも人間の感覚は、恐れ、おののき、そして何とかしてバチがあたらないように・・・、というものである。

  私もいろんな形で、葬儀のお手伝いをさせて頂くが、日本人はこのバチ、汚れという観念からなかなか抜けない。仮にここが六畳間の部屋だとする。そしてここに、今息を引き取ったばかりの遺体が置かれているとする。その部屋が日本人の家庭では一番大事な居間、リビングだとすると、たいていそこには神棚があり、別室には仏壇がある。まず葬儀屋さんが来ると、「半紙はないですか。」と尋ねる。

 半紙をどうするのかと思って見ていると、神棚に紙を張り、神様たちがこの汚れを見ないようにというわけである。不思議に思うのは、汚れ汚れと言いながら人間はその汚れたものに手を合せて拝む。全く理に反することをしているのだ。汚れたものを神様に見せてはいけないと言って半紙を張って、「神様、見ないでね。」とやっていて、自分達はこっちで手を合せて拝むという、こうした矛盾したものが日本人の神に対する考え方である。

 私は聖書を読んで本当に感謝したことは、こうした恐怖、恐れ、不安から解放されるということであった。いつも悪いことをすると、「バチが当たる。」あるいは、「そんな人生を送っていると何か必ず後で後悔するようなバチが来るぞ。」というようなことを言われて、まわりをキョロキョロ見回しながら、自分は本当に安全だろうかと過ごしてきた。そういう状態は非常に不安であった。イエス様を心にお迎えするまで、私の人生は真正面にずっと突き進んでいなければならないと考えていた。       

       ( 続 く )

◎ 暗誦聖句  エレミヤ記九章二三節


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