◆ ロマ書の学び(38)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇四年二月八日号
         ▽信仰によって生きる


 自転車と同じで、止まっていると倒れてしまうから、一生懸命こがなければいけない。多少下手でも、こいでいれば走っていく。本当に上手になると少しぐらい止まってもじっとしているが、たいていは止まれば倒れる。だから、それまでは夢中になって自転車をこぐように、私は人生を走ってきた。

 でも、イエス様を心にお迎えしたときに、全くイエス様におゆだねして、そういう走り方をしないでもすむようになったのである。なぜならば、イエス様が私の罰を受けて下さったからだ。そして、これまで怖い怖いと思って神様に背を向けていた私が、今度は神様の方に向かって「神様、ありがとうございます。」という親しい交わりを与えられるようになった。その確信となったのが、ロマ書五章一、二節の聖句である。


 私達は自分の良い行ないで、一方、ユダヤ人は割礼を受け、律法を守るとか儀式や戒律を守ることによって神様にご褒美を頂こうとして、失敗した。割礼を受ける者も、割礼を受けない者も、神様に受け入れて頂くためにはただ一つ「信仰」しかない。

 神様がご用意下さった救いの方法であるイエス・キリストを心にお迎えするという信仰によって、初めて神に受け入れて頂くことができる。私達は神様に「あなたは無罪放免ですよ。罪を一度も犯したことがないと同じように認めますよ。」と言われるために、何をすべきだろうか。献金だろうか。

 「これまで献金は一〇〇円やっていたけれど、思い切って一万円にしよう。」そうではない。イエス様がご覧になっていたときに、貧しいやもめがレプタ二枚をささげた。それは現在のお金で一円ぐらいのもので、そんなわずかな献金を、恥ずかしそうにしてささげたその未亡人は神様に大変大きな祝福を頂いた。神様が見ていらっしゃるのは、私達の献金の額ではない。私達の心がどれほど神様に向いているか、神様をお喜ばせするか、である。

我らの主、イエス・キリストにより、神に対して平和 を得たり。  

 夫婦が、ちょっとした争いからお互いに口も利きたくない、顔も見たくない「お前なんか出て行け!」「出て行きますよ。」と、お互いにケンカしてツノ突き合わせている時には結婚するんじゃなかったと思うものである。もう少し別の女性と、あるいは別の男性と結婚すればよかったと思うのではないだろうか。  

 「神様との平和」、何というすばらしい安らぎに満ちた御言葉であろうか。

           (続く)

◎暗誦聖句  エレミヤ記九章二三節       


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