◆ ロマ書の学び(39)
いさかい、争いというのは辛いものである。そばにいるだけでピリピリして、相手は何を考えているか、どういったら相手は自分のことを理解してくれるだろうかと悩むのである。 「神様との平和」ということは、私達はいつも神様と仲良しでいるということである。仲がよければ、お願いしやすいものである。皆さんはご主人に「今日の牧師の話は堅苦しくて肩凝っちゃった。教会から帰ったらちょっと肩もんで下さいよ。」とは、絶対言わないだろう。 壁があるのだ。牧師には、「今日はむずかしかったから、もう少しやさしくして下さい。」とか、あるいは「今日は楽しかった。」とか「長い間の疑問が解けた。」とか、何か言ってもらいたい。私でも、時々家内の肩をもむ。先日も、「ああ、肩凝っちゃった。」と言うから、それじゃあ、とチョチョッとほんの一〇分位であったが肩もみをしてあげた。私達は仲が良ければ、争いがなければ、普通だったら頼めないことも頼めるものである。 イエス様を通して私達は、全てのものをお造りになった創造主の神様に何でもお願いすることができる。例えば疲れた時には「神様、私は疲れました。休息を下さい。」寝る前にそうお願いする。そうすると体の筋肉の疲れが全部癒される。 今晩寝る前に「神様、私はもう本当に疲れました。肩は凝り、足はパンパンに張っています。水虫もかゆくて大変です。」何でもいい。「神様どうか私をいやして下さい。」と祈って寝るなら必ずその答えがある。不眠症に悩む人であっても、必ずその悩みは解決する。神様はイエス様のお名前を通して、何でも私に求めなさいとおっしゃる。
汝ら今まで何をも我に求めたることなし。 求めよ、さらば与えられん。 と書かれている。これが、神様を愛する者の特権である。 それまでは逃げまどっていた者が、今度は神様に何でもいいからお願いをする、お話をする、これが神との平和なのである。 「義と認められる」ということは、神様の司法的な行為である。神様との正しい関係に立ち、立場が変化をした。「義人」というのは、無罪であり義であることを明らかにするということだ。神様は、人類に対して神ご自身のご性質を明らかになさった。私達が十字架を見上げる時に、自分の力、自分の功績は全くないということを知るのである。 こうして私達は、イエス様を通して神様との間の平和を頂き、どんなことでも神様にお願いし、嬉しい時も、辛い時も神様に訴えかけることができる。 ( 続 く ) ◎ 暗誦聖句 マタイ伝六章九節 |