◆ ロマ書の学び(45)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇四年三月二八日号
         ▽ 神との平和


また彼により信仰によりて今、立つところの恩恵(めぐみ)に入(い)ることを得(え)、神の栄光を望みて喜ぶなり。
                  ロマ書五章二節

 太平洋戦争が終わるまで私たちは「教育勅語」や「修身」というものを持ち、日本の教育制度の中でこうすれば正直な者は大体生活が出来ますよ、という倫理観や道徳観があった。

 けれども、敗戦によって、私たちは自分達がこの生活の中で充分幸せになれるんだという土台が足元から崩れてしまった。戦争が起きた時には日本はいつも「神風(かみかぜ)によって救われた」という、伝説的な事を聞かされてきたのに、日本がなぜ負けたのか?なぜアメリカが勝ったのか?ということを知りたかった。

 アメリカが日本を占領した時に、日本人の婦女子を暴行したり殺したということはあまり聞かず、むしろあちらこちらで聖書を配る宣教師の姿が見え、また「ケア」という物資が配給されたりして、確かに日本人が教えた事とアメリカとは違うんだなあということが分かった。

 その頃学校に行くと先生に「何ページから何ページまで筆を取って黒く全部消しなさい。」と言われ、民主主義に反する教科書の内容は全部黒塗りにさせられた。学校の先生達は、自分達が教えてきたことが全く悪かったということで、先生自身が教える力を失ってしまった。

 そういう時代にあって私は聖書を手にしたのであった。人生の依(よ)るべきところは何か?有名な文学小説を読み、また人生の指針を得ようといろいろな思想の本を読みあさった。けれどもそこには何一つ自分の魂を変革する力がなかった。

 とうとう私は英語の勉強をしながらこのロマ書を最初に読み始め、何度か聖書を読んだ。マタイ伝から始まって名前の羅列(られつ)…。「何だこれは。わからない!こんなおもしろくないもの。」とほうり投げたこともあったが、ある時ロマ書の記述が私の心をそっくりそのまま表わしていることに気が付いた。

 私がロマ書を勉強したのは、法律の勉強をするために通信教育を受けていた時であった。法律の勉強をしている最中に聖書の学びをしながら、私にとって法律よりも聖書の方が大事だということが段々と分かってきた。

 私は熱心な仏教徒である父に育てられた。父親自身がお寺で育ったということもあり、非常に厳格な家庭であった。絶対嘘をついてはいけないという修身道徳のお手本みたいな家庭の父親で、大変厳しかった。そういう中にあって私は聖書を読んだ。
                  (続く)


◎ 暗誦聖句 箴言二〇章二三節
 


本ページへの問い合わせは ruthdick@mtj.biglobe.ne.jp までお願いします。