◆ ロマ書の学び(48)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇四年四月二五日号
         ▽ 神との平和


 旧約聖書を見ると、イスラエル三代目の王様ソロモンは沢山の側妻(そばめ)を抱えた。(これは日本でもあるが…。)周辺の国々と領土の争いをしないようにと政略結婚をし、その結果色々な出身地の女性の偶像や神々をソロモンは迎えてしまった。

 神様はソロモンに知恵を与えて下さった。けれども彼のその不信仰の罪、不従順の罪の故に、ソロモンの死後イスラエルは二つに分裂した。一方はイスラエル王国で、ャラベアムがリードをとり、一方はユダ王国として、レハベアムがリードをとった。

 イスラエル王国、サマリヤ地方のヤラベアムはイスラエルの人々がエルサレムに礼拝に行ったのでは彼らの心は自分から離れてしまうと考えて、イスラエル王国内に偶像崇拝の場所を作った。その時、神様は一人の預言者をお遣わしになり、ヤラベアムの罪を指摘した時に、彼は大変怒った。

 しかし、神様は彼の手を引っ込めることが出来ないようになさったため、ヤラベアムは預言者にこう言った。「汝の神、エホバの顔をなごめ、我がために祈りて我が手を元にかえらしめよ。」列王記略上一三章六節「あなたの神様にお願いして、そして私の手を元に戻して下さい。」という意味である。

 私達は自分の人生に何か問題があると、教会に来て牧師あるいは、宣教師、信仰の先輩に「どうぞ私のために祈って下さい。」と言う。しかし、聖書の約束は、マリヤや、牧師や宣教師を通さずに、あなたが直接父なる神様にお願いすることが出来るとある。

 牧会をしていると時々「先生。私のためにこういう事を祈って下さい。」と言われ、その時すぐ祈らないと、むかっときて後で私のことを非難する人たちがいるが、祈りというのは誰かに強制されてやるものではないと思う。私はその人の話を聞いている時、すでに祈りを始める。

 口に出さなくても神様に祈りながらお話を聞いている。人間は弱いので、特別に牧師がひざまずいて手を置いて祈らなければ祈ってくれないと思うかも知れないが、そうではない。私たちは中間に仲介役のマリヤや牧師を必要としない。直接、父なる神様にお願いし、お話できる。これが信仰により、今立つところの恵みに入ることができるということなのである。

 皆さんが、目を閉じて「神様、父なる神様」とお祈りすると、神様は「分かっている。あなたの言いたいことを言いなさい。」と、私たちが言葉を発する前に聞いて下さるのである。

かれらが呼ばざるさきにわれこたえ、彼らが語りおえざるに我きかん<Cザヤ書六五章二四節  (続く)


◎ 暗誦聖句   申命記五章七節


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