◆ ロマ書の学び(52)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇四年五月二三日号
         ▽ 神との平和

 

 単なリポートにまとめて、一〇名程にEメールで送信した。日頃Eメールはあまり好きではない私だが、今回ばかりは本当にびっくりした。昼間に送って翌日には私の手元に返事が来たのである。それも、アメリカから・・・。なかなかEメールも捨てたもんじゃないなと思った。「いいメールであった!」

 私たちがいただいている祝福がまた別のところで祝福を呼び起こし、連鎖反応を起こしているようで本当に感謝なことである。その返事の中に、結婚を反対され、一〇数年間行き来のなかったご主人の両親が、教会に来会されたという神様の大きな憐れみの証があった。

 私たちは神様を信じて祈る時に、刈り取るのは絶望ではなくて希望であり、豊かな祝福があるということを覚える。ロマ書の五章は大変素晴らしい聖句がたくさん記されていて、とても短期間では学びきれないほどのみ言葉の奥義が隠されている。

 ロマ書五章一節に斯(か)く我ら信仰によりて義とせられたれば、我らの主イエス・キリストに頼(よ)り、神に対して平和を得(え)たり。≠ニある。

神に対して平和を得ている。%本に育って生活をしていて当然日本人が小さい時から持ってきた日本人の独特な感覚と言うか、人生の捉え方というものは身に染みてることであろう。私達は何か人生に悪い事が起る、躓(つまづ)きが起こると「先祖の祟(たた)りである」と、こういう風に小さい時から言われてきた。先祖を粗末にしたからあなたにこういう祟りが来たんだ、と。或いは不幸の経験があると「運命だ」そう言うことで諦(あきら)めという事が強調されてきた。

 私も子供の頃から、くり返しこうした仏教的な諦めの教え、更には人生の様々な問題に直面する時にいつも先祖の霊を大事にしないからだということで、それこそ「恐怖観念」を植え付けられてきた。熱心な仏教徒であった父に対して私はなかなか逆う事が出来なかったけれども、戦争に敗けた時に、仏教には私が頼るべき力がないな、ということを感じた。

 そしてまた、日本人が「大和魂(やまとだましい)」だとか「神道(しんとう)」、日本は神の国であると考えていたことも単なる幻に過ぎなかったと思った。そして私は自分の生き方は自分で選びたい。こうした因習であるとか、或いは日本人の義理・人情の世界とか、仏教・神道の世界ではなく、自分で納得のいく生き方を求めていきたいと決心した。(続)
 

◎ 暗誦聖句   申命記八章三節C


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