◆ ロマ書の学び(54)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇四年六月六日号
         ▽ 神との平和

 「みんながやっているから」ということは、自分のやる事を正当化するためで、「みんなが言っている」ということは、自分の意見をいかにも正しいように見せかけようとするためであろう。全く別の問題なのである。

 「みんなが」というのは、自分の行為を正しいと認めてもらいたいためで、皆が言っているからというのは、実は自分が言っているのである。「皆が」という表現をかりて「自分」の言うことを正当化しようとしているのだ。日本人独特な責任回避、また何でも他の人のせいにしようとする生き方があると思う。

 こうした人間の生き方、日本人の生き方、その一番の原因は何かと言うならば、私たち日本人には神様との平和がないからではないだろうか。神様との間に争いがあり、戦いがあるために、いつも不安な心を抱えている。その不安というものは、やがて自分達は裁かれるという無意識の、潜在的な恐怖となってくる。「祟(たた)り」というのも同じような考え方で、本来自分はそうしたくないけれども祟りがあるからしようがない、という諦(あきら)めであり、誰かのせいにしてしまうのである。

 これまでそういう生活をしていらっしゃるならば、今回この聖書の学びを通して、そういうあなたの手足をがんじがらめにする鎖から断ち切られて自由になる事が出来る道を選ぼうではないか。。

 私は厳しい父親のもとで、仏教や儒教的な教えの中に育ったけれども、その鎖を断ち切り、自分で神様を呼び求めた。

 皆さんそれぞれの人生、確かにそれは自分の人生ではあるが、神様からいただいたその命をどう神様によって導かれ最大限に人生を喜ぶ事が出来るか、ということがそれぞれに与えられた鍵ではないかと思う。

 最近、カウンセリングの本の宣伝文に われ看(み)て なんじを宝とし尊(とうと)きものとし、またなんじを愛す。私はあなたを宝とし、尊い者とし、あなたを愛するというイザヤ書四三章四節のみ言葉が使われている。もちろん、私たちも何年か前、この聖句をイザヤ書の連続講解の時に勉強した。しかし私の心の中には、はたしてカウンセリングでその聖句を使っていいのかなあ、という疑問がある。

 本来、聖書で書かれているこの言葉はヤコブに対して ヤコブよ、なんじを創造せるエホバいま如此(かく)いい給う。=iイザヤ四三章一節)という言葉で始まっている。ヤコブとその子孫に対する神様の呼びかけなのである。            

      (続く)


◎暗誦聖句  申命記 一一章二七節


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