◆ ロマ書の学び(55)
自死しようとする人や登校拒否をする人達に対して、「神様は、あなたは宝であり尊い者であるから自分自身の人生を粗末にするな、と語られている。」と思っているのだろう。しかし、聖書のお言葉は時には本来の性質そのものが意味する前後関係から離れて一人歩きをすることがある。 まず原則的に大切な事は聖書のみ言葉は前後関係を全く無視して適応することは避けなければいけない、ということである。なぜかと言うと、使徒パウロは私は罪人の頭(かしら)である。≠ニ、自分自身を決して宝であるとか尊いとは言わなかったからである。「私は本当に価値のない者である。 陶器師は土をこねて器を作り、悪い物はつぶしてしまうのにもかかわらず、神様はあえて私を生かして下さる」という思いがあったわけだ。私は罪人であり、罪人の頭(かしら)であるにもかかわらず、神様は私を救って下さったのだという表現なのである。 それはロマ書五章においても同じである。 私たちが尊いからイエス様が死んで下さったということよりも、私たちが弱くて何も出来ない時に、神様に逆らっている時に、罪深い私のためにイエス様は十字架について死んで下さった、こうして神様の愛を表わして下さったのだと書いてあるのだ。 ジョージ・ワシントンというアメリカの大統領の大変有名な逸話を覚えているだろうか。彼がまだ子供の頃、お父さんが斧を買ってくれた。彼はその斧でお父さんの大事にしていた桜の木を切ってしまう。まあどの辺りまでが事実か分からないが、学校で習ったワシントンの逸話として覚えているだろう。彼は、切れそうな斧をもらってすぐ手当たりしだいに切ってみようと思った。 神様は私たちに「あなたは私と正しい関係に立つならば、あなたの信仰によって私の十字架を受け入れ、信仰を働かせなさい。」と、おっしゃる。ワシントンの事を忘れても結構だが、斧は切るためにある。では、信仰は何のためにあるのか。信仰、信仰、信仰と崇(あが)めるためにあるのではない。信仰は使うためにあるのだ。では、どういう事に信仰を使うのか? 皆さんが病気の時、あるいは必要に迫られた時、「神様、どうか今、家族に必要な食べ物を下さい。経済的な必要を満たして下さい。」と祈る。また受験勉強の時、「神様、この学科が不得手で集中できません。どうか助けて下さい。」と祈る。これもまた信仰の働きなのである。(続)
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