◆ ロマ書の学び(57)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇四年六月二七日号
         ▽ 神との平和

 

我等のなお弱かりし時、キリスト定まりたる日に及びて敬虔ならぬ者のために死に給えり。=@ロマ書五章六節

 

 大変、慰めに満ちた聖句だと思う。私たちは自分が才能があるから救われたのでも、自分たちが仕事が良く出来るから救われたのでもない。頭がいいからとか、音楽が出来るから救われたのでもない。聖書の記述を借りるならば、私たちは本当に無きに等しい者、塵(ちり)のような者であっても、神様は私たちを救い上げて下さったとある。

 そして神様はその愛を注いで下さるために、私たちを引き上げて下さった。私たちはよくこういう表現をする。もし私が(、、)何かの宗教を選ぶ(、、)とするなら、仏教かキリスト教かイスラム教かそれとも他の宗教か。まあどちらかと言うと私は、キリスト教だと思いますね。」と言う日本人が多い。これはいかにも傲慢な人間的な考え方だと思う。

 聖書に「汝らわれを選びしにあらず、我汝らをえらべり。」(ヨハネ伝一五章一六節)と言うキリストのお言葉がある。

「あなたは神様を礼拝するために自分の意志で来た。」と言うだろう。しかし、あなたが神様を礼拝するようになったのは、あなたの力でも才能でもない。あなたが人一倍善人だから神様があなたを救ったのでもない。むしろ、教会に集まっている人は日本社会でも一番良くない人間の集まり、とかくとあなたは怒るだろうか?

 私もまた、パウロと同じように「私は罪人の頭(かしら)です。」と神様の前に立つ。皆さんもそれぞれが、「私は罪人の頭です。イエス様の憐れみがなければ、滅びの中に滅んでいる存在です。私がまだ弱かった時に、神様を求めなかった時に、神様に逆らっている時に、或いは耶蘇教(やそきょう)だとか、色々な悪口を言っていたような時に私もイエス様によって救われたのです。何一つ誇るところがありません。」と言う思いで、パウロと同じように神様の前に立つのではないだろうか。

 私は生まれつきクリスチャンだ、という人は絶対いない。親がクリスチャンだから自分もクリスチャンというのは、絶対あり得ない。あくまでも、自分の意志で神様を求める。ヨハネ伝一章一三節を見るとあなたがたは血筋によらず、自分の肉によらず。=@と書かれている。ただ、神様の憐みによってイエス様を信じるようにされた。

 私たちはクリスチャンになろうと思って一生懸命聖書を読む。しかし、クリスチャンになろうと思っていくら聖書を勉強しても、自分の力によってクリスチャンにはなれない。(続く)

◎ 暗誦聖句  申命記一三章四節後半
 

 


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