◆ ロマ書の学び(58)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇四年七月四日号
         ▽ 神との平和

 

 神様を呼び求め、神様の憐みによって私達は救いをいただく。救いの方法は大変簡単である。お腹の空(す)いた赤ちゃんが「オギャー、オギャー。」と泣く。赤ちゃんが泣くのはお腹が空いているか、おしめが濡(ぬ)れているかどっちかだと言う。赤ちゃんが泣くとお母さんが来て、おっぱいをくれる。私たちは神様の前に「オギャー。」じゃなくて「神様、助けて下さい。」と叫びを上げればいいのだ。

 信仰のない人たちでも救いの瞬間、神様は祈りを聞いて下さるというのが聖書学者の解説である。救いに関しては、私たちがイエス様を信じるかどうかという最大の決心をする時に、その心に神様が働かれ、聖霊の働きによって私たちが神様を呼び求めるという形にして下さるというのだ。

 もともと人間はアダム以来の罪のために神を選ぶ事が出来ない。ただ救いを求める時だけ聖霊の強い働きかけで、私たちは自分の意志が変えられて神様を呼び求める。そして、そこから私たちは毎日毎日、今度は常識でも、自分の努力でもなくて信仰によって生かされていくのである。

 クリスチャン生活は、献金をする、あるいはお祈りをする、聖書を読む、教会で奉仕をする、それで成長すると思ったら大きな間違いである。信仰生活の成長の鍵は、どれだけ私たちが神様との正しい関係にあって、神様を喜び、神様により頼むか、信仰を働かせるか、なのである。

 私たちは信仰によって神様に罪のない者と認められた。信仰によって最後まで進んで行く。信仰というのは目に見えない。しかし、信仰の働きの結果を見ることはできる。信仰というのは、私たちが自分の考えよりも、神様を信じる事によって常識をこえて神様に依存することである。

 真っ暗な部屋の中から子供に「そこから飛び降りて来なさい。お父さんがちゃんとしっかり受け止めるから。」と言ったとする。親からは子供が見える。しかし、子供から親は見えない、という状況でたいていの子供は親が「降りておいで、飛べるよ。」と言うと、無鉄砲に飛び降りて来る。

 子供は必ず受け止められると信じるのだ。クリスチャンの信仰は、見えないことも神様が必ず受け止めて下さる、という信仰によって飛び込むものである。

 私たちが以前、弱かった時に、神様は私たちを愛して下さった。素晴らしい神様の愛だと思う。  (続く)


◎暗誦聖句  申命記一四章二七節前半
 汝の門の内におるレビ人を棄(すつ)るなかれ。

 


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