◆ ロマ書の学び(59)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇四年七月一一日号
         ▽ 神との平和

 

然(さ)れど我等がなお罪人たりし時、キリスト我等のために死に給いしに由(よ)りて、神は我らに対する愛をあらわし給えり。=@          ロマ書五章八節

 私たちは力のない者、弱い者で、希望のない者であり、絶望の状態にあった。

われ立止(たちど)なきふかき泥(ひじ)の中にしづめり、われ深き水におちいる。大水(おおみず)わが上をあふれすぐ。  

             詩篇六九篇二節

汝の手(みて)は夜も昼もわが上にありて重し、わが身のうるおいはかわりて夏のひでりの如くなれり。

             詩篇三二篇四節

 こんな状態であった私たちである。そして私がなお罪人で、イエス様なんか信じない、聖書も読まない、何もしないという不信仰な状態の時に、キリストは私のために死んで下さった。この場所を読むと私は、本当に自分は神様の一方的な憐みによって生かされているんだなあ、とつくづく思う。

 川の中で溺(おぼ)れかけたこと、太平洋戦争のさ中に焼夷弾(しょういだん)が落ち家が焼ける寸前、火の中で守られたこと、米飛行機の機関銃掃射(そうしゃ)の中を逃げ惑いながら助かったこと、アメリカで伝道中に黒人に殺されそうになった時や、船が大しけで揺れて沈みそうになった時も、様々な苦しみの中にあって神様はいつも守って下さった。本当に神様は信じる者を決してお見捨てにならない、ということを実体験として味わってきているわけだ。

 私たちが神様を愛したから神様が救って下さったのではない。キリスト教が大嫌いだと言っていた、そんな私が神様によって救われたのである。まさに神様の一方的な愛と憐れみのゆえである。勿論、今でも私は弱い人間で、罪を犯して負ける事がある。でも負けても、つまづいても私には帰る場所がある。帰る所があるのだ。

 空を飛ぶ鳥は夕暮れが迫ってくると、ねぐらに向かって帰ってゆく。ねぐらのない鳥は哀れな存在だと思う。私たちは自分の休む場所、霊魂の憩いの場を、イエス・キリストの中に見出すことができるのだから何と幸せであろうか。

 イエス・キリストは私たちの身代わりとなって下さった。旧約聖書の〈出エジプト記〉を読むと、エジプトで奴隷の状態にあったイスラエルの人々が、神様の裁きの使いが来る時に家の入り口のかもいの所に血を塗った。そして裁きの御使いたちは、かもいに血が塗ってある所は通り過ぎたと記録されている。

 これが〔過ぎ越しの祭り〕の起こりである。

                             (続く)

◎暗誦聖句 申命記一六章一七節
各人(おのおの)汝の神エホバに賜わる恩恵(めぐみ)にしたがいて其力(そのちから)におよぶ程(ほど)の物を献(ささ)ぐべし。


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