◆ ロマ書の学び(60)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇四年七月一八日号
         ▽ 神との平和

夫(それ)われらの過越(すぎこ)しの小羊、即(すなわ)ちキリスト既(すで)に屠(ほふ)られ給えり。=@  

    コリント前書五章七節

神は罪を知り給わざりし者を我らの代(かわり)に罪(つみ)となし給えり。これ我らが彼に在(あ)りて神の義となるを得(え)んためなり。

         コリント後書五章二一節

 

 イエス・キリストは、本来私が死ぬべき場所において身代(みがわ)りとなって死んで下さった。仮にあなたが道を歩いていてトラックにはねられそうになった時、脇から男の人が飛び出して来てあなたを突き飛ばすようにしてトラックの暴走から守ってくれたとする。あなたはどうするだろうか。

 「私のきれいな洋服をよごしちゃって。こんなとこ、すりむいちゃって。」と言って怒るだろうか?そんな事はしない。「私の命の恩人です。」と言って感謝するだろう。

イエス様は私の身代わりとして犠牲となり、死んで下さった。

功(いさお)なくして、神の恩恵に(めぐみ)より、キリスト・イエスにあ る贖罪(あがない)によりて義とせらるるなり。

          ロマ書三章二四節

【贖罪(あがない)】

何のよい行(おこな)いもなく、功績(こうせき)もない状態にあって神様の恵みによってキリスト・イエスにより贖(あがな)いによって神の前に義とされる。

【贖い】それは買い戻す、という意味である。私たちは自分の力で生きるとか神様を信じないで自分で生きられると思う。実態はあなたの意志が言っているのではなく、この世を支配している悪魔があなたの心に働いて、あなたを罪の奴隷として自由奔放(ほんぽう)の生活、快楽を求めさせているのだ。

 神様を知らないという人は、もっとも惨(みじ)めな存在である。なぜならば心の自由がなく、良いことをしようとしても良いことが出来ない。正しいことをしようとしても正しいことが出来ない。いつも自分の欲望、自分のわがままな願いの奴隷(どれい)となっているからである。そんな状態のあなたをイエス様は神の国へ買い戻すために十字架上で血を流して下さった。イエス・キリストの汚れのない血は、父なる神様の御前に注(そそ)がれ、私たちは罪の汚(けが)れから解放される。

即(すなわ)ち神は忍耐をもて…己(おのれ)の義を顕(あらわ)さんとて、キリストを立て、その血によりて信仰によれる宥(なだ)めの供物(そなえもの)となし給えり。

     ロマ書三章二五節

 大きな言葉三つを心にとどめよう。
  【犠牲】

  【贖い】

  【供え物】

       (続く)


◎暗誦聖句  申命記一七章一七節後半
金銀を己(おのれ)のために多く蓄積(たくわう)べからず。



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