◆ ロマ書の学び(61)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇四年八月一日号
         ▽ 神との平和

 仮に皆さんが何か事故を起こし、壊 ( こわ ) してしまったものを弁償すれば、相手はそれで満足するだろうか。

 仮に私が「ちょっと車を貸して下さいね。」と言って、信号の所で車をぶつけてしまったとする。相手の怒りを静めるために、日本人の社会ではよくやることがある。

 ちょっと塀(へい)を擦(こす)っちゃったとか、何かあった時、「ごめんなさい、こんなにしちゃって。つまらない物ですが…。」と風呂敷を出すのだ。そうすると相手はそれ以上、文句を言わない。これはおもしろい習慣だと思う。「何だ、こんな物持ってきて。」と目の前でつき返すかもしれない。後でゴミ箱に入れるかもしれないが、その時は「まあ、そんな気を使わなくていいんですよ。」と言って許してくれる。

 私たちは何か悪い事をしたならば、その代価を払わなければいけない。払(はら)って元どおりになるかと言えば、そうではない。相手に迷惑をかけ、相手の物を壊したということで、宥(なだ)めの供(そな)え物が必要である。「ご免なさい。」と、余分な物を出さなくてはならない。

 イエス様は犠牲となり、供え物となり、さらに私たちを買い戻して下さるという三つのことを兼ね備えて下さったお方である。(ロマ書五章六〜一一節)

 テレビの報道で見たことだが、若い男の人と女の人が崖(がけ)っぷちにいた。女性の足が滑(すべ)って谷の方に落ちそうになった。男性は助けようと懸命だったがどうしても彼女を引き上げることができない。そこへ山岳部で活躍していた二〇代半ばの男性が飛んで来て彼女を救い上げたが、その時に助けた本人は足を滑らして、谷底へ落っこちて、川で溺れて亡くなった。一つの美談かもしれない。

 亡くなった青年の親元にその男性から、一〇万円を送ってきた。女性は助かってすぐ、姿が見えなくなってしまったので、誰だか分からない。男性は一〇万円を送って来て「これから先は弁護士と話し合って下さい。私に一切連絡しないで下さい。」という事だった。人ごとながら私は腹が煮えくり返った。何という人間だろうか。

 仲のよい友達か恋人同士だったかは知らないが、その女性の命を助けて犠牲になった男性が亡くなったのに、である。それに対して一〇万円ポーンと送って、それ以上私と関(かか)わらないで下さいと言う…。恐ろしい時代になったなと思った。同じ事を私たちはやっていないだろうか。

 イエス・キリストが私の罪のために死んで下さった。にもかかわらず、私たちは神様に対して感謝の思いもあらわそうとしない。生かされたその思いを、神様への奉仕、また信仰を働かせることによって、神様の御栄えを表す生き方をしないならば、この青年たち以上に私たちは罪深い状態ではないだろうか。                          (続く)


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