◆ ロマ書の学び(62)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇四年八月八日号
         ▽ 神との平和

 

かく我ら信仰によりて義とせられたれば、我らの主イ エス・キリストに頼(よ)り、神に対して平和を得(え)たり。

                  ロマ書五章一節

 世界中いつの時代においても、日曜学校の生徒をはじめ多くの人々が一度は耳にしたことがある聖書の有名な聖句がある。ヨハネ伝三章一六節である。

それ神はその獨子(ひとりご)を賜(たも)うほどに世を愛し給えり、すべて彼を信ずる者の亡(ほろ)びずして永遠(とこしえ)の生命(いのち)を得(え)んためなり。

 このヨハネ伝三章一六節の言葉は、多くの伝道者がくり返しくり返し説教してきたし、また有名な伝道者はこの聖句一つで一年間、礼拝のメッセージをしたという逸話も残っている。どんなに深く掘り下げようとしても、このヨハネ伝三章一六節を私達は完全に解き明かすことはできないと言われる。

 しばしば引用しているキャンベル・モルガンという聖書学者は「私にとってこのヨハネ伝三章一六節は説教することが大変難しい聖句である。私はこの聖句を通して皆さんにお話することは不可能だ。」と言った。この聖句を読むならば、それに付け加えることはないし、差し引くこともできない。

 あの有名な聖書学者であるモルガン博士にして、人間の知恵をもって神様の愛とまた御子イエス・キリストの犠牲というものをこの聖句以上に表わすことが出来ない、と言わせた「神様の愛」。使徒パウロはロマ書五章の中にそれに付随するようなかたちで、神様の愛と憐れみとを書いている。五章において、私達がその最大のテーマとして考えることは「神との平和」ということである。

 イエス・キリストの十字架を仰ぎ見ることによって、私たちのよい行いとか、戒律を守るということなくして、神様の憐れみによってイエス・キリストを見上げる信仰によって、ただの一度も罪を犯したことがないようにみなされるということである。

イエス様を信じる事によって、私達は「義人(ぎじん)となる」ということではない。「全く罪を犯さない義人となる」という意味ではないのだ。これを誤解しないでほしい。私達はイエス様を信じてからでも、間違いを犯したり、躓(つまづ)いたり罪を犯すことがある。

 この聖句の意味は、たとえ私たちがつまずき、罪を犯すことがあっても、イエス様を見上げる信仰を持つなら、あたかも一度も罪を犯した事がないと同じように、法律的に、「無罪と宣言して下さる」ということなのだ。私が全く罪を犯さない完璧な人間になるという意味ではない。間違わないようにしていただきたいと思う。    

                    (続く)


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