◆ ロマ書の学び(63)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇四年八月二二日号
         ▽ 神との平和

 

 私達は、この地上に生きている間、生涯様々な誘惑に出会い、あるいは、日々の生活の中でたたかいを経験していく。

 自分では正しいと思っていても、神様が御覧になる時に、よくない事であるかも知れない。私達は信仰生活を営(いとな)んでいくうちに段々、自分の手で神様に喜ばれる「義」を積んでいこうとしてしまう。そういう落とし穴があるのだ。

 「偉大な魂は、単純な魂(たましい)である。」と言う伝道者もいた。偉大な人物、偉大な信仰の人物というのは、非常に単純な信仰の持ち主である。そのことを覚えていただければと思う。「単純な信仰」とは、イエス様が私の罪を背負って身代わりとして死んで下さり、十字架につい て下さったことを信じることである。

 モーセは荒野で蛇を挙げた(ヨハネ三章一四〜一五節)。毒蛇に噛まれた人々は毒蛇の姿をした青銅の蛇を見つめた時、瞬間的に癒(いや)された。同じように私達はイエス様の十字架を仰ぎ見る時に罪を赦される。

 「じゃあ、これからいくら罪を犯しても構わないな。」と言って、またこの世に出て行って、面白半分に或いは自分のしたい放題に罪を重ねることは、愚かな事である。本当の意味で救いのない人と言わなくてはならない。

さらば何(なに)をか言はん、恩恵(めぐみ)の増(ま)さんために罪(つみ)のうちに 止(とどま)るべきか、決(けつ)して然(しか)らず、罪(つみ)につきて死(し)にたる我ら はいかで尚(なお)その中(うち)に生きんや=@ロマ書六章一〜二節

 これはヨハネの書いた第一の書簡を見ていくとわかる。イエス様を信じる人は、毎日、毎日、……現在進行形でイエス様を信じ、そして神様に従っていこうとする。ただ一度だけ信じて、あとはもうおしまいということではない。私達はイエス様の十字架を仰ぎ望むことによって、神様と平和をもつようにされた。

 ロマ書一章においては神の怒りが異邦人にも及び、また二章においてはユダヤ人もまた神の怒りのもとに置かれているということが書かれていた。しかし、五章において使徒パウロは一転してユダヤ人もギリシャ人も全ての人間はイエス・キリストを通して神との平和をいただくことが出来ると書いた。

かく我ら信仰によりて義とせられたれば、我らの主イ エス・キリストに頼(よ)り、神に対して平和を得(え)たり。
                 ロマ書五章一節 

 

                     (続く)

◎暗誦聖句  マタイ伝七章一五節
偽預言者(にせよげんしゃ)に心せよ、羊(ひつじ)の扮装(よそおい)して来(きた)れども、内(うち)は 奪(うば)い掠(かす)むる豺狼(おおかみ)なり


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