◆ ロマ書の学び(64)
「神との平和」それはまず自分自身の心の中に良心の呵責(かしゃく)、咎(とが)めを持たないことがあげられている。イエス様を信じていながら、私達が隠れて何かをやるという時に、当然良心の咎(とが)めを感じる。私は若い頃教会に通っていたが、本当の意味での救いの喜びを経験できず、いわば戒律主義、律法主義の時代を経験した。 その時代には、一方では神様を見上げながら、そしてもう片方では自分の努力によって信仰生活を全(まっと)うしなくてはいけないと、間違いをした。罪を犯すと、何かそれを隠(かく)そうとして、よけい良心の咎めを覚(おぼ)えたものだ。 そうした信仰生活の中にあってとうとう自分自身の日々の生活の中に、自分の力では信仰を全う出来ないという絶望状態に入った。そして私の力でも私の努力でもなく、全く神様に明け渡した時、初めて心の底からたましいの自由を味わうことが出来た。 皆さんもよくご存知のハドソン・テーラーという中国伝道をした宣教師も、実は同じ経験をしている。クリスチャンのカウンセリングをロマ書六章からスタートさせたチャールズ・ソロモンという先生も、(私も後で知ったことだが)同じような経験をなさったと書いている。ゆえに、このような経験は多くの人達が経験する、一般的な経験であることが、わかると思う。 使徒パウロはもはや我(われ)生(い)くるにあらず キリスト我が内(うち)に在(あ)りて生くるなり。≠ニ言った。 「今生きているのは私自身ではなくして、イエス・キリストの命が私という身体を通してはたらいて下さる。生きているのは私自身ではなくして神様ご自身の命が私を通して働かれるのだ。」というその信仰の確信に至るまで、私は随分長い間さまよい、また心のたたかいを経験した。 若い皆さんも教会出席、礼拝、什一献金、祈り、そして聖書を読むこととか、いろいろな形で自分は「こうしなければいけない、ああしなければいけない」という義務感でやっていると当然挫折がくる。張り詰めた琴の糸が、ぷつんと切れるようにである。 皆さんはその努力の結果、絶望すると思う。実は、本 当の意味での信仰生活とはその絶望から始まるのだ。 …神のもとめたもう祭物(そなえもの)はくだけたる霊魂(たましい)なり 神よ汝は砕(くだ)けたる悔(く)いし心を藐(かろ)しめたもうまじ。=@ 詩篇五一篇一七節 神様が喜ばれるのは砕かれた霊魂である。 |