◆ ロマ書の学び(65)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇四年九月五日号
         ▽ 神との平和

 

 「自分がイエス様を信じたのだ。」という生き方は実はまだまだ序の口であって、本当の信仰は神様に自分自身を含めて、全てを明け渡すことである。そこにこそ、神様からいただく、良心(りょうしん)の咎(とが)めを感じないで毎日平安に過ごすことの出来る秘訣(ひけつ)があるのだ。

 また、イエス様を信じる者は神様によって裁(さば)かれることがないということは、その神との平和をあたえられ、神の裁きを恐れずに生きるということである。

 勿論(もちろん)、それは人殺しをしたり、強盗をしたりという「犯罪」のことを言っているわけではない。信仰のない友達の誘いに乗って、思いがけず誘惑(ゆうわく)に負けてしまったということがあるかもしれないし、或いは自分自身の生活の中で怒って物を壊してしまったり、誰かを傷つけてしまうことがあるかもしれない。

 でも聖書に戻ってほしい。神様はいつも私達の病(やまい)を、私達の傷を癒(いや)す力をもって、待っていて下さる。そして神様は「神様ごめんなさい」と謝るならばその瞬間、罪を赦(ゆる)して下さる。「ああそうか、では何か悪い事をしてもいいのだな、謝(あやま)ればいいのだな。」と言って悪い事をする人は愚(おろ)かな人である。その人は本当の意味で神様の赦しを味わっていない。

 皆さんは小さい時から、今に至るまでに一度だけではなく、何度か物を壊(こわ)したり、あるいは誰かに怒られたという経験があるだろう。「私はそういう事が一度もありません、優等生です」という人はいるだろうか。

 人間は草のような存在、弱い存在である。間違いを犯しやすい者である。ここが問題なのであろう。ここが一番肝心(かんじん)なところである。

 神様は私達が、草のような、風にそよぐ葦(あし)のような弱い存在であることをご存知でいらっしゃる。人間は罪に負けやすい存在だと神様はご存知で、私たちがイエス様を信じるという時に、過去に犯した人殺しの罪や、泥棒(どろぼう)の罪、人と争(あらそ)いをした罪、人を騙(だま)した罪があっても、イエス様を信じた瞬間(しゅんかん)に過去の罪はゆるされるのである。無罪放免(むざいほうめん)なのである。 「じゃあイエス様を信じる前に出来るだけ借金(しゃっきん)をして踏(ふ)み倒そう。」これまた愚かな事である。

 人間対人間の関係でそういう間違いは、イエス様を信じるとき、私達は全てを償(つぐな)う責任がある。神様に対して償(つぐな)うことは出来ない。けれども、人間対人間にある問題は、これは自分で償う必要があるのだ。
                    (続く)

暗誦聖句ヨハネ伝一〇章一一節
我は善(よ)き牧者(ぼくしゃ)なり、善(よ)き牧者は羊のために生命(いのち)を 捨(す)つ


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