◆ ロマ書の学び(66)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇四年九月一二日号
         ▽ 神との平和

 

 しかし、人を殺してしまった時は、人間に対しても償(つぐな)うことは出来ない。「神様。私はこういう罪を犯しました。私はもはやあの人の命(いのち)を地上に戻すことは出来ません。しかし私自身のこれからの生涯を神様ご自身のためにお使い下さい。」と神様にお祈りをして、自分自身を生きたきよい供え物として捧(ささ)げていくことしか出来ない。その故に、使徒パウロは「時を贖(あがな)う」という言葉を使ったのだ。

 罪の時代において成し得なかった事をこれから生きる時に、神様それをもって贖(あがな)わせて下さいと言った。人はいくら働いてもいくら神様にお金を積んでも、自分自身の命を贖うことは出来ない。あまりにも命の代価が高いからである。

 神様は、イエス様を通して神との平和を与えて下さる。そして私たちは、毎日神様の裁(さば)きを恐れることなく、神様の祝福を喜ぶことが出来る。

 夫婦喧嘩(げんか)をした時、お互いブスっとして、黙々と箸(はし)を動かして食べて、「お茶!みそ汁!」食べ終わったらパッと立ち上がって…。こんなおいしくない食事はないだろう。私も何度か経験した。そしてやはり喧嘩をして食べるのはよくないなと思う。

 神様は私達が弱いことをご存知であり、罪を赦して下さる。罪を赦された私達は、二度と同じ過(あやま)ちをしたくないという気持ちを持つだろう。ここにイエス様を信じる信仰者と信仰をもっていない人との違いが出てくる。信仰をもっていない人は、お酒に溺(おぼ)れ、悪い事をしでかしてしまう。失敗をすると「もう私は二度と再びお酒を口にしない。」と言う。が、その誓(ちか)いはすぐ崩(くず)れてしまう。

 もう既に亡くなった一番上の兄が、若い頃、正月に半紙に墨で「これから禁酒」と書いて床(とこ)の間(ま)に貼った。が、あくる日には、もう飲んでいて、三日目に自分で床の間に貼った紙を破いて捨てていた。

 私たちは弱い者である。クリスチャンの場合には、神様に誓(ちか)うことはしないが「神様どうか私を毎日毎日、一歩ずつ高みに引き上げて下さい。」と祈って生きる。

 神様との平和を頂くことによって、私達は救いの確証を頂くことが出来る。それは確かな事実である。イエス様を信じようか信じまいかと迷(まよ)っている間、心が不安だったと思う。教会では礼拝の後よく、「イエス様を今日心にお迎えしたら、どうぞ手をあげて下さい。」という招(まね)きの時がある。心の中で「あっ、今日は信じよう」と思うけれども牧師と目が合うと、ぱっと手を下げてしまうことが若い頃何度かあった。そしてとうとう、もうこれ以上抵抗(ていこう)しきれないと手をあげ前に出て、祈ったのである。皆さんが招きの時に、ためらうのはよくわかる。(続く)


◎ 暗誦聖句  ユダ書三節後半
聖徒の一度(ひとたび)伝えられたる信仰の為(ため)に戦わんことを勧(すす)む


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