◆ ロマ書の学び(67)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇四年九月一九日号
         ▽ 神との平和

 本当に自分が信じようか、信じまいかというその決心をする時、いろいろな思いが出てくる。

 「もし自分が今、イエス様を信じてクリスチャンになったら、友達関係がなくなってしまうかもしれない。ダンスも、お酒もたばこも、何もかも駄目(だめ)かもしれない。」という恐怖感(きょうふかん)が襲(おそ)って来る。そして、自分にはとてもついていけないと思ってしまう。その戦いがある時に、 「心配はいりません。貴方(あなた)の力ではなく、私が貴方と共に戦います。」と、神様は私の心にはたらいて下さる。

 神との平和とは、どんな難(むずか)しい時にも神様が私と一緒に立っていて下さり、私と一緒にたたかって下さるということである。イエス様は「私の軛(くびき)は軽い」とおっしゃった。軛(くびき)というのは牛二頭をたてて、土地を耕(たがや)す時に、首につける道具である。軛というのは、力の強い方がぐんぐん土を掘り起こして進むので、力の弱い方はただくっついていけばよい。イエス様がその軛を負って下さるゆえに、私は力が弱いが、イエス様に歩調を合わせて進めばよいのである。その事を理解するのに私は数年かかった(信仰生活の中で…)。

 それまで自分の力で牧会し、勉強し、聖書を読み、祈って、と…自分の力でやってみたが、挫折(ざせつ)や失敗ばかりでとても信仰生活を全うできないと思った。そういう肩を張った信仰生活から裃(かみしも)を脱ぐことである。ちょうど家に帰って「あーあ、さっぱりした。」と洋服を脱いで、裸になるのと同じである。神様の前に自分という殻(から)を捨てて、神様を取り込んでいく時、心のぎくしゃくしたものがなくなって素直(すなお)に神様に従っていけるようになる。

 神様は私達の外側も中側もすべてご存知のお方である。

 人間は他人を見ても、外側しかわからず、心の中にどういう汚い思いが渦巻(うずま)いているかわからない。人は外の形を見、神様は人の内側をご覧になると旧約聖書に書いてある。私達は、神様の前に、いつも自分自身を素直にさらけ出すこと。飾る事は必要ない。もう自分のあるがままの姿で、神様に従うという時に、本当の意味での良心の咎(とが)めから解放され、また神様が私の罪けがれを赦して下さるというその事実に根ざした立場の変化、神の子供とされるという立場の変化をもつ。

 では、信仰は事実という「理性」であって感情は全くないのだろうか。ある人達は非常に熱心であるが、その熱心さが知識に裏づけされていない、とパウロは指摘した。クリスチャンは「感情」をいつも殺して抑圧しなければいけないのだろうか。そうではない。

    (続く)

 

◎ 暗誦聖句 第一ヨハネ四章一節
愛する者よ、凡(すべ)ての霊を信ずな、その霊の神より出(い) づるか否(いな)かを試みよ。多くの偽(にせ)預言者、世に出(い)でたればなり。


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