◆ ロマ書の学び(71)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇四年一〇月一七日号
         ▽ み言葉を生きる

 

 「まして」という言葉を好んで使った伝道者は使徒パウロである。ロマ書五章九、一〇、一五、一七、二〇節と続く。その他では、コリント前書一二章に一箇所、同後書三章の九、一一節、そしてピリピ書二章、ピレモン書の一六節、また学者によってはヘブル書(パウロが書いたといわれる)九、一二章とある。

 新約聖書の中で「まして」という言葉は、この七回とロマ書の五回で計一二回出てくる。この他には出てこない。しかも、「まして」という言葉が五章の中に頻繁に出てくるということは、どんなにパウロが神様の恵みと憐れみを強調したかったのかが分かる。これからの生涯でつまずいた時に、あるいは疑いを持つ時に、様々な悲しみを抱える時に、この言葉を想い起こしてほしい。「まして」、必ず皆さんの日々の生活の中に大きな力となぐさめ、励ましをもたらして下さると思う。

 五章の八節を見ていくと、「我らがなお罪人たりし時」とある。私たちはそれこそ世の中の罪汚れにどっぷりと浸って、箸にも棒にもかからない≠謔、な、もうめちゃくちゃな生活でどうしようもなく、救いようがない、ヤクザで、だらしなく怠け者で、神様に逆らってばかりいた罪多き者である。すなわち、どこから見ても私たちは正しくないのだ。

 戦後、日本に来た宣教師がよく漢字を分解して絵を画いた。「罪」という字は四の下に非と書く。「非」は「あらず」で普段のことではない。人間を前から見ても後ろから見ても左から見ても右から見ても良いことがないというのが罪である。四つの面から見て良いことが非(あら)ずということだ。「非常」にというのは普通の時でないこと、「非」というのはNO(ノー)である。

 「罪」というのは神様が私たちをご覧になる時に、イザヤ書の表現を借りるなら、足の裏から頭の天辺に至るまで腫れ物とウミで一杯だという状態をさす。汚れに満ちた存在である。そんな罪人である私たちのためにイエス・キリストは死んでくださった。そして神様は私たちに対する愛をあらわしてくださった。

 これから結婚する方は、相手の男性あるいは女性に「もし、あなたが私を愛するならその証拠を見せてください。」という言葉を使うことがあるかも知れない。大体、日本人は愛情表現が不得手、非常に苦手である。「家内は私が愛していることは分(わか)っています。そんなことは言わなくても分っているんです。」と。でも、奥様は言ってもらいたいのではないだろうか。

              (続く)

◎ 暗誦聖句 レビ記一九章三一節


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